排除型社会: カニバリズムと過食症

 この章ではレヴィ=ストロースの「人間を飲み込む社会と吐き出す社会」という概念を手掛かりに前章につづき、現代社会の分析がなされる。

 クロード・レヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で提案した、包摂型社会と排除型社会の類型は、多くの社会評論家を魅了してきた。レヴィ=ストロースは次のように論じている。「未開」社会は、よそ者や逸脱者を飲み込み、自分たち自身と一体化し、そこから強さを得ようとする社会である。つまり、人間を飲み込む社会である。他方で、現代社会は人々を吐き出す社会である。逸脱者は社会から排出され、外部に追放されるか、あるいは特別な施設の塀のなかに閉じ込められる。(pp. 146-7)

 あらゆる社会が人間を飲み込む装置と吐き出す装置の両方を備えていることを見誤りさえしなければ、この考え方は社会を分析するための道具として役に立つ。人々を包摂/排除する過程で社会統制装置が果たす役割に注目することは必要だが、現存する理論の多くは統制装置を、統制対象である犯罪・逸脱や差異・困難の原因と切り離して考察しているという点で不十分である。ヤングの見方によれば、完全な説明を期待できる理論とは「犯罪と刑事司法制度の両者が組み込まれている社会的文脈がどのようなものであるか、社会統制システムが直面している無秩序と多様性の広がりがどれくらいであるか、そして市民が積極的に社会統制へ参加することで両者のあいだにどのような共犯関係がつくられているか」(p. 151)という問題を扱うものでなければならない。

 包摂型社会は多様性と差異に対して不寛容な態度をとる代わりに、困難に対して包摂主義的に接する社会であった。秩序に抵抗し問題を起こす人々は福祉国家の役人にとって格好の矯正対象であり、反抗するものは寛大に受け入れられ更生・改心させられふたたび社会へと送り込まれる。多元性を憎む近代主義にとって多様性は困難よりはるかに大きな脅威となる。このため、専門家集団や実証主義者に多様性をうまく説明するための仕事が課せられた。「近代社会は経済的にも社会的にも成功を収め、歴史的発展の最終段階にあると思われるほどなのに、いったいなぜこれほど多くの価値観や態度、行動の違い生じているのだろうか?」(p. 157)。近代主義のプロジェクトを円滑に運行するために、そこでは多様性を単なる逸脱にすり替えて、更生の対象に仕立て上げることが急務とされていた。

 近代社会における包摂主義は差異を差異のまま野放しにすることを許さない。青少年の非行やヘロインの使用は広く受け入れられている文化とは異なる文化(たとえば若者文化やボヘミアン文化)としては認められず、適切な発達の途上であったり(「われわれも若い頃はそうだった」[p. 159])、発達の過程で何らかの欠落が起きたことによる失敗(「奴らはわれわれのようには成長しなかった」[p. 159])として処理された。このような見方は「寛容の1960年代」に1つの頂点を迎える。そこではあらゆる「社会問題」が正常の範囲内にあると定義され、逸脱・病理の定義は非常に狭い範囲に限定される。このような見方をとることで「正常」と「異常」との軋轢は中和され、両者のあいだにはある種の連続が生まれ、「われわれ」にとって「異常」は危険視すべきものではなくなる。

 以上、包摂主義の言説が、あらゆる差異を「同じもの」か「欠如したもの」のどちらかに、あるいは「正常なもの」か「異常なもの」のどちらかに還元してきたことをみてきた。「われわれと同じ人々」と「われわれがもつものをもたない連中」という二分法は、いかなる差異の痕跡も消去してしまう。(p. 165)


 後期近代になり犯罪が日常化し社会的困難が増加すると近代社会と同じようなやり方で人々を包摂することは不可能になる。しかしながら、後期近代を排除一色の社会と見る単純なヴィジョンは、やはり物事の一面しか見ていない。レヴィ=ストロースの概念を借りて後期近代を適切に表現するとしたら、それは人々を「飲み込み」、そして「吐き出す」社会となる。後期近代では差異や多様性がいったん包摂された後、寛容性の程度に応じた格付けがおこなわれ、いくつかのものは排除される。社会的差異と社会的困難がともに増加した後期近代にあっては絶対的な規範は失われ誰もが犯罪者になる可能性をもち、そのため犯罪被害はいたるところで発生する。したがって、後期近代における社会統制は必然的に、ほとんどの人を巻き込むある種の選別のような様相を帯びていく。現代の社会統制は誰もが評価対象としての曝露状態におかれるという意味で包摂的であると同時に、評価の結果、矯正や統合につながることがない分離がおこなわれるという意味で排除的である。後期近代における社会統制を特徴づける「保険統計主義」の根底に潜むのは、このような社会認識なのである。

 それはスイッチのオンとオフを切り替えるように、包摂と排除を切り替えるというものではない。……ここで評価されるのは「リスク」であり、その大きさは保険統計的な観点から、すなわち計算と査定によって決められる。そのような社会のイメージを述べるなら、それはインサイダーが中心にいてアウトサイダーが周縁に追いやられるという同心円状のイメージではなく、地位に応じて人々が順番に並んだビーチのようなイメージであろう。……このビーチは上から下までなだらかにつながっているが、それでも大金持ちとアンダークラスのいる場所ははっきりと分けられており、人々が場所を移動することはできなくなっている。(pp. 167-8)

 保険統計主義を支えているものは精度の高い確率論的解析をもとにした、問題の生じる蓋然性の計算である。そして保険統計主義にもとづく社会統制が目指す目標はユートピアの実現ではなく、危険に満ちた世界に小さな塹壕をたくさん建設することである。要するに問題の原因を議論の俎上に乗せ、道徳的な検討を加えることなどは関心の埒外に置かれることになる。もっとも重要なのは問題が発生する確率を精確に知ることで、危険を避け、被害に遭う可能性を最小化することである。繰り返しになるが、このような保険統計的な手続きを重視する考え方は、単に統制機関の傾向としてあらわれているだけでなく、人々にも普及した態度である点を見落としてはいけない。さらに、ここで強調しておく必要があるのは、このような統制機関と人々の態度の変化の両方に、犯罪とリスクの増大が影響しているという点である。「個人社会制度『どうしたら危険な人々のなかから安全な人々を選別することができるか』という問題に直面することになった。しかし、正確で確実な選別方法がないために、結局は確率に頼って選別する以外に方法がない」(p. 171)のである。


 保険統計的な態度は実際の犯罪とリスクの増加に対する社会的反応であり、現代社会における排除の主要なルーツとなっている。しかしながら、後期近代の排除と包摂の理論にとって、社会的反応「以前」のそもそもの犯罪・逸脱の淵源を扱うことはやはり避けてとおれない作業といえる。この点については、経済的「欠乏」と文化的「欠乏」から犯罪の発生を説明する理論がすでに有効性を失していることが、これまで繰り返し論じられてきた。犯罪の発生原因として肝要なのは相対的剥奪であり、そのルーツは成功神話という文化への包摂が進行する過程において、現実的な機会の制限が存在する状況から犯罪が生まれることを定式化したR・K・マートンの理論までさかのぼることができる。人々を飲み込むと同時に吐き出しもする現代社会の特徴を、このマートンの理論のなかにはっきりと見て取ることができる。

 それは、人々を貪欲に飲み込み、同時に人々をつねに排泄するような、いわば「過食症社会」である。「過食症――つねに空腹で、それを我慢できない状態を指す。さらに意図的な嘔吐や下剤の大量摂取が伴う場合、その症状は〈過食神経症〉と呼ばれる」[Concise Encyclopedia, 1995, p. 145]。先進産業国の社会秩序は、その成員を飲み込むものである。それは教育やメディア、市場へ組み入れることをつうじて、大量の人間を食い尽くし、その文化のなかに同化・吸収する。マスメディアは媒体を増殖させ、あらゆる場所に入りこむことにより、人々の余暇時間に占める割合を増やしているだけではなく、グローバル化した成功と期待と欲望のイメージを垂れ流している。(p. 208)

 ここで強調されているのは、逸脱の前提として包摂がもつ役割の重要性である。この問題について、消費文化への過度の包摂が逸脱と密接なかかわりをもつことを鋭く指摘した事例として、ヤングはカール・ナイチンゲールによるフィラデルフィアでの黒人スラムの研究(『崖っぷちの人々』)を引用している。

 彼は、かつてのマートンのように、犯罪や逸脱がいかにアメリカン・ドリームと深くかかわっているかを理解するようになったが、その経過を次のように記している。

 子どもたちは貧しく、福祉に依存し、移民労働者との競争に負け、地域のリーダーからも見放され、人種的に隔離され、多くのアメリカ人から恐れられ、蔑まれ、最後には投獄されている。本書に登場する子どもたちほど、アメリカの主流社会から疎外されている存在はないようにみえる。
 しかし、都心部の貧しいアフリカ系アメリカ人の子どもたちの生活がまったくアメリカ的なものだとはじめて理解したのは、私自身がかれらと親しく付きあうようになってからのことである。[ibid., pp. 5-6]

 ナイチンゲールは、黒人たちがアメリカン・ドリームを熱烈に信じることによって、逆に自分たちがその夢を実現できないことに怒りを覚えるようになっていく様子を詳細に描いている。最初に彼は、黒人たちがいかにアメリカの主流文化の影響を受けているかを描き出している。……

 この地域の多くの子どもたちは、すでに5歳か6歳になる頃には、大人たちの贅沢なブランドの名前を呪文のように唱えるようになる――グッチ、エヴァン・ピコン、ピエール・カルダン、ベンツ、BMW。……10歳になる頃には、ナイキやリーボックのスニーカーの熱狂的信者になっている……。[ibid., pp. 153-4]

 ……彼はアフリカ系アメリカ人の子育ての重要な要素が、リベラルな価値観を反映した「自由放任」ではなく、むしろ伝統的な「厳格な躾」であることも指摘している。……ナイチンゲールの説明によれば、黒人たちが伝統的価値観に熱狂的に賛同するのは、たんにテレビや市場の影響を受けているからではなく、自分たちの不利な境遇を補償しようとする、複雑でダイナミックなプロセスの表われであるという。
 ナイチンゲールは、マートンと同じように、こうした緊張が経済的・社会的排除と文化的包摂の組み合わせから起こっていることを強調するが、他方では、この矛盾を補償するために、文化的アイデンティティがいっそう大きな意味をもつようになることも指摘している。

 都心の子どもたちは、アメリカ主流文化の大規模な市場に包摂されている。そのことは、黒人の子どもたちが、日々の生活で直面している経済的・人種的排除にたいしてどのように反応するかを決定するほどの大きな意味をもっている。実際、子どもたちにとって、排除の経験は辛い記憶と結びついている。そのことが子どもたちを、とくに大衆文化へと熱狂的に向かわせているのである。というのも、消費文化は、子どもたちが挫折感を慰めるための魅力的な手段を提供してくれるからである。[ibid., p. 135]

 ……以上のように、カール・ナイチンゲールの理論は、アンダークラスの問題をたんなる排除の結果と考える人々を批判するものである。……さらにナイチンゲールの主張は、スラムを異質な価値観の集積場とみなすような理論を批判するものでもある。というのも、スラムはそのような場所であるどころか、まったくうんざりするほどアメリカ的価値観で満たされているからである。……
 これこそ、文化的包摂と社会的排除から成り立つ「過食症」社会である。その社会では、貧しい人々はみずからの不遇を埋めあわせるために、過剰なまでに主流文化への同一化をおこなう。そのことにより、かれらは、社会構造が本質的に排除的であることを、これまで以上に知るようになる。ナイチンゲールは後者のプロセスについて軽く触れただけであるが、このプロセスをさらに検討することで、私たちは議論をもっと先に進めることができる。このような排除を伴う過剰な同一化は、アンダークラスの人々にどのような反応を引き起こすのだろうか。もっとも明快な回答は、犯罪である。若者の場合には、ギャングなどの犯罪的下位文化の創出であろう。(pp. 215-21)

 過食症社会が生み出す下位文化を、ヤングは後期近代における多様性と差異を理解するための契機ととらえる。以下が下位文化に対するヤングの定義である。

 下位文化とは、既存文化を道徳的基盤として生まれてくるものであり、また、既存文化の枠組みのなかで認識された問題を解決するための方法である。……下位文化は、社会のあらゆるところに発生する。それは、広範な価値についての解釈の総体であり、解釈でどの部分が強調されるかは、年齢や階級、ジェンダーエスニシティによって異なる。それぞれの下位文化は、寄せ集め、再解釈、そして発明によって結びついている。(pp. 229-32)

 後期近代の社会は消費主義の文化に塗りつぶされつつある。このプロセスのなかでスラムの人々が主流文化に「包摂」されていく様子は、上で指摘したとおりである。フィラデルフィアの事例では、文化的包摂と経済的排除とのあいだの緊張を補償するために、スラムの人々が消費主義へといっそう同調するような文化を発達させていることも確認された。現代社会をおおう差異は、こうした下位文化と結びついたものとして理解できるとヤングは主張する。

 スラムに文化が欠如しているわけでもなければ、スラムの文化が他の文化と本質的に異質なわけでもない。そうではなく、スラムの文化は差異なのである。下位文化が特定の価値観を強調し、変化させるのは、その下位文化が社会全体の一般的文化と結びつき、それを切り貼りすることによってである。スラムの人々は、自分たちの不利な状況を埋めあわせるために、上位の一般文化にたいして過剰なほど同一化したり、あるいは過剰なほど拒絶したりする。……下位文化は、もはや後戻りできないほど主流社会と結びついてしまっているが、にもかかわらず、それは差異なのである。そこにこそ後期近代社会における多様性の意味がある。下位文化とは、重なりあい、選択、強調、そして変容の場である。さらに下位文化は、こうしたプロセスをつうじて新たな可能性を創造するとともに、他者を排除する場でもある。下位文化の成員は、こうした状況のなかで自分自身を理解する。しかし、そのときかれらは、自分たちを創造的な存在と捉えると同時に、他方では他者を本質化する。(pp. 240-1)

 消費文化への過同調とその結果としての相対的剥奪感の慢性化、そして逸脱への傾倒という悪循環は、後期近代に潜在する排除の弁証法の過程として理解することができる。また、ここでの問題は単に物質的欲望が満足させられないということにとどまるものではない。経済的な剥奪は個人が社会のなかで担うべき役割を失わせ、存在論的不安を助長する。存在論的不安の広がりが、自己と他者を本質化する下位文化の創出に拍車をかけていることは疑い得ない。