排除型社会: 他者を本質化する

 この章では多文化主義をキーワードに、存在論的不安の増大の帰結について検討が加えられる。図式的に示せば、存在論的不安の高まりは多文化主義を誘導し、それが本質主義を強化することで社会的排除を誘発する火種となる、とまとめることができる。この問題には、社会現実に対する人々のとらえ方が、自然的態度のエポケーから多文化主義的エポケーへと転換したという輪郭を与えることが可能である。

 社会的態度のエポケーはアルフレッド・シュッツが提示した概念である。ヤングは本書での議論と関連付けながら、以下の解説を加えている。

 私たちの社会的世界は人間の手によってたまたま今ある姿をとっているにすぎないのだが、自然的態度のエポケーにおいてはそのような考えが棚あげされているのである。ピーター・バーガーとトーマス・ルックマンは、共著『現実の社会的構成』のなかで、社会制度や行為に付与された意味が客観的実在として、つまり恣意的な人工物ではなく確固とした存在として認識されるようになる理由を指摘している。それは、懐疑を一時停止しているあいだは、アノミーへの恐怖や、実存的な孤独と孤立の感覚から守られるからである。すなわち、「制度的秩序は恐怖にたいする防護壁として現われる。アノミーになるということは、この防護壁を奪われるということであり、悪夢の襲来にたったひとりでさらされるということなのである」[1967, p. 119]。人間存在の根底にある不安定さ、そして生存に適した〈環境世界〉への欲求は、一連の防衛メカニズムを要求する。(p. 248)

 後期近代への移行にともない職場と家族を主成分とするライフスタイルは、誰もが一様に達成することができるものではなくなってきている。生活から安心が失われることは世界の自明性に対して疑いをもつきっかけになる。ここに、価値観と下位文化の多元化が重なると、人々は自分自身の生に絶対的な意味を見出すことがますます困難になる。このようにして、自然的態度のエポケーは修正を加えられることを余儀なくされる。

 当然のように自分たちとは別の仕方で物事をおこなっている人々が実際に存在することを考えれば、もはや自分たちの世界だけに安住することはできなくなる。後期近代の市民にとって世界がたったひとつではなく複数存在するということは、誰もが現象学的態度で生きなければならないことを意味する。自然的エポケーが通用したのは、戦後の先進産業諸国で合意と物質的保障と社会的包摂が維持されていた時代である。しかし、現在のように都市生活が多様化し、グローバル化したマスメディアが毎日のように多種多様な文化を垂れ流す状況では、もはや自然的エポケーは通用しなくなっている。こうした困難に対処する態度こそ、私が「多文化主義的エポケー」と呼んでいるものである。つまり、自然的エポケーの特徴である「懐疑の一時停止(あるいは〈括弧〉にいれる)」を、いわば多元化することである。この場合、それぞれの文化は、他の文化からみずからを区別するために、独自の排他的領域という〈括弧〉のなかに閉じこもろうとする。それはちょうど、それぞれの集団が、リスクを最小化するために、保険統計的計算にもとづいて物質的・経済的バリアを張り巡らせようとするのと同じである。(pp. 250-1)

 存在論的不安に対処するやり方として、多文化主義を表明することにははっきりとした魅力がある。そうすることで人々は自然的態度を完全には手放さなくて済むようになるし、他方で異文化に対しては無関心を決め込むことができる。

 多文化主義のおかげで、人々は自分たちの選択を相対化しなくても、規範の相対性を受け入れることができるようになるわけである。……多文化主義における異文化への距離の取り方(「尊重」とか「寛容」という言葉でごまかしているが)が異文化への不安をつくりだす可能性は十分にある。というのも、それは戦後の包摂型社会に代えて、排除型の飛び地が点在する世界をつくりだすからである。……かつて近代主義が求めたのは、開放的で、「脱埋め込み」的で、両義的で、断片化された世界をつくりだすことであった。それは自己とライフスタイルを自由に選択し、創造することが可能な世界だった。しかし、多文化主義はそのような世界を消し去ろうとする――つまり、一方で多様性を認めながら、他方では行為者から選択の自由を奪おうとするのである。(p. 259)

 明らかに多文化主義は多様性の共存とは相容れない性質を備えている。それは、多文化主義の内容が本質化の過程を含んでいるからである。近代主義の全盛期には、人間のあいだに本質的な差異など存在しないという信仰が生きていたため、本質的に同じであるはずの人々を対等に扱わないことは、不正義だと見なされていた。ところが、絶対的な標準が失われ価値の多元化が不可避的に進行する後期近代においては、差異を承認することへの圧力が大きくなる。人々のあいだに存在する差異が不変の「本質」と結びついたものとして理解されるとき、本質主義は力を得る。本質は本質であるがゆえに自身と異なる本質をもつ他者に共感することを、しばしば困難にさせる。異なる本質同士が混じり合うことなどは、ほとんど不可能といえるだろう。

 本質主義は、排除主義のもっとも重要な戦略のひとつである。……本質主義の魅力は、人間の歴史上つねに存在してきた。しかし、後期近代社会に突入した現在、その戦略がとくに魅力的にみえるようになったのは明らかである。後期近代は、存在論的不安が増大する時代である。多くの個人や集団が、アイデンティティの危機に悩まされている。そのような文化的傾向のなかでは、基本的価値や家族の価値が強調され、原理主義が人々の心に強く訴える。たとえば、公共領域へ女性が参入したことは、男性性にたいする大きな打撃となって社会的葛藤を引き起こすことになり、また、下層労働者階級の男性が周縁化されたことは、性差を本質化するマッチョ文化を生みだすことになった。(p. 267)

 本質にもとづくカテゴリの設定とステレオタイプの生成は、一方で、そのステレオタイプにしがみつくことでアイデンティティの獲得を担保し、他方で他者へのステレオタイプの押し付けは、自分自身と「本質的に異なる」他者の存在を明確化するのに加担する。自己本質化と他者の本質化は完全に同一のロジックに依拠している。どちらの場合も、多様性のなかから自らのライフスタイルを選択するという近代主義の進歩的な側面から遠く離れた地平へと人々を誘導する。そこに、「あり得たかもしれない自己の別の姿」として他者を見る視線はない。そして、逸脱と犯罪の原因が他者の本質と結びつけられるとき、他者の悪魔化が進行する。

 本質主義は、社会のさまざまな部分の人々を悪魔に仕立てあげるための必要条件なのである。他者を悪魔に仕立てあげることが重要なのは、それによって社会問題の責任を、社会の「境界線」上にいるとみられる「他者」になすりつけることができるからである。このとき、よくあることだが、因果関係の逆転が起こる。社会に問題が起こるのは、実際には、社会秩序そのもののなかに根本的な矛盾があるからなのだが、そう考えるのではなく、社会に問題が起こるのは問題そのもののせいだ、と考えるのである――つまり、「問題自体を取り除いてしまえば、社会から問題はなくなるじゃないか!」というわけである。(pp. 285-6)

 他者の悪魔化は、自身が所属する集団のアイデンティティを再確認するという作業と表裏一体のものである。物質的・存在論的不安に押し潰されそうな状況のなかで安全な〈環境世界〉を確保し日常生活の安定性を維持しようとするのであれば、自己の信奉する文化と逸脱的下位文化とが交錯する可能性など、あってはならないからだ。

 他者と距離をとることの基本となるのは、犯罪や逸脱を、社会の基本的価値観や構造とは関係なく起こるものとして説明することである。……本質化された他者に逸脱の責任を負わせることは、逸脱というのは逸脱的本質によって生みだされる現象で、その逸脱的本質は特定の個人や集団に内在していると考えることである(したがって、それは定義上「われわれ」の特徴ではない)。正常性を再確認することは、デュルケム的に言い直すと[Erikson, 1966]、正常と異常との境界線をもっとはっきりと区別できるように引き直すということである。「人々のなかに潜む悪魔」というイメージは、逆に身近な正常人のイメージを強化する働きをもっている。(p. 293)