孤独なボウリング: 潮流への抵抗?――小集団、社会運動、インターネット

 第2章から第8章では、さまざまなコミュニティから多くのメンバーがいなくなっていった様子が記述されている。なかには青年ボランティアのように、退潮の流れに抵抗する動きもあるが、その抵抗力はまだ大きなものではない。第9章では、コミュニティのメンバーの喪失に対する逆転現象となりうる3つの要素がとりあげられる。それが小集団、社会運動、インターネットである。個人的な関心もあるので、この読書ノートではインターネットにだけ触れておきたい。インターネットやCMCによる「バーチャル・コミュニティ」は、旧式の物理的コミュニティを置き換えることで、市民参加の低下という現象を緩和することができるのだろうか。インターネットが市民参加に及ぼす影響に関するパットナムの「予測」についてまとめてみたい。


 パットナムはインターネットに対する非常にユートピア的な見方からは一定の距離をとっている。ユートピア的な見方の代表は、似たような関心をもつ友人や「見知らぬ者」との間で情報とコミュニケーションが大量に交換されることによって「地球村」(グローバル・ビレッジ)が誕生するというものである。また、インターネット・コミュニティは匿名性が高いために、特定の属性をもつ人の参加を拒むことがすくない。したがって、そこは参加者の年齢、性別、人種といった属性に注目したとき、現実のコミュニティよりも平等主義的で「民主的」な空間として特徴付けられる。ただしパットナムは、サイバー・スペースで民主主義が増大するといった主張は、慎重な研究にもとづいたものというよりは希望的観測にもとづくものだと論じている。

 市民参加と社会的なつながりに対するインターネットの潜在的なメリットとして、パットナムは、関心は共有しているが時間と空間を共有していない人を低コストで結びつける手段になる点を考えている。なかでも、「社会的紐帯を時間の制約から解放したこと」(p. 209)は、インターネットがもちうる重要な影響だと見なしている。

 これに対して、コンピュータ・コミュニティが直面することになるかもしれない4つの問題についても指摘をおこなっている。

 1つ目はいわゆる「デジタル・デバイド」の問題だ。よく知られているように、サイバー・スペースへのアクセスには社会的不平等が存在する。一般的に、白人、男性、若年、高学歴者にインターネットのヘビーユーザーが多い。政治参加について見ると、インターネットはこれまで参加に消極的だった層を引きつけているのではなく、むしろ既存の偏りを強化する傾向があるという。エリートの社会的ネットワークに対する「持たざる物」のアクセスが減っていけば、インターネットは橋渡し型社会関係資本の先細りをもたらすサイバー・アパルトヘイトになるだろう。これは非常に恐ろしいことだが、デジタル・デバイドは問題として認識されやすいため、対策をとることが可能になる。助成支援によって安価なアクセスの機会が、公共の場や個人に提供されれば、デジタル・デバイドは克服することができるだろう。

 2つ目はコンピュータを使ったコミュニケーションは、対面的コミュニケーションに比べて、情報の伝達量が著しくすくないという問題である。対面的コミュニケーションでは、言葉だけではなく表情やしぐさも相手に伝えられる。そして、このような非言語的サインは、しばしば言葉以上に真実をあらわすものなのであるが、コンピュータを使ってこれらを伝達することは現在の技術では非常に難しい。また、コンピュータ・コミュニケーションは社会への埋め込みがなされていないため、境界があいまいで、「出入り自由」の「立ち寄り」的な関係をうながす傾向がある。こうした偶発性、いってしまえばある種の気楽さが魅力だと感じているユーザーもいるだろうが、参入と退去があまりに容易だと、コミットメント、誠実性、互酬性は発達しない。パットナムは、コンピュータ・コミュニケーションの結果として社会関係資本が生まれるのではなく、むしろコンピュータ・コミュニケーションを効果的にするためには、「現実」の社会関係資本がその基盤になっていないといけないと考えている。

 3つ目の障害はサイバー・バルカン化と呼ばれるものである。インターネットは、人々の関心をきわめて正確な形で抽出し、非常に狭い領域にコミュニケーションを制限することができる。パットナムの出している例からは外れるが、「2ちゃんねる」の漫画板の作品板のキャラクター板なんかを想像するといいと思う。狭い関心を基盤としたコミュニティの特徴として、外部(ここでは関心を共有しない人々)に対してはかなり非寛容である。当該のコミュニティに関係のない話を出すと「トピック外れ」として非難を浴びせられることになる。パットナムによれば、こうしたことが起こるのは(特定の)サイバー・スペース上のやりとりは、単一の話題でのみつながっていることが多いためだという。

 インターネット技術は、赤外線天文学者、ワイン通、スタートレックファン、白人至上主義者に対して、そのサークルを考えの似た仲間たちに狭めることを可能とし、またそれを促進する。……コミュニケーションの増加が趣味や関心を狭めると同時に、思いがけない偶然の関係ができる可能性が減っていく――知識や関心の量が増える一方で、その対象はますます減っていくのである。この傾向は、狭い意味での生産性を向上させるかもしれないが、一方で社会的凝集性を低下させる。(p. 214-215)


 最後の潜在的な障害は、インターネットが結局、単なる娯楽の道具に終わってしまうという可能性である。ただしパットナムも指摘しているように、こういったことを評価するにはまだ時期尚早である。『孤独なボウリング』の原著は2000年に出版されており、その当時の資料によれば、インターネットの利用はテレビ視聴時間にはマイナスの影響を及ぼしているが、新聞や雑誌の講読にはそれほど影響していないようである。


 このように、インターネットに対する楽観的、悲観的両方の見方が検討されているが、パットナムはそのどちらに対しても批判的である。パットナムは、コンピュータが既存のコミュニケーションのあり方を置き換えていく、といった意見にとくに注意をうながしている。かつて電話がそうであったように、コンピュータ・コミュニティは対面での接触にとって代わるようなものではなく、それを強化するものだ、というのだ。コンピュータやインターネットを使って交流するのは、結局のところ、「ふだんよく会っている人たちと」ということになるのだろう。

 『孤独なボウリング』の出版が2000年であることを考えれば、インターネットに対するパットナムの視線は冷静なものだといえるだろう。ただ、残念(?)ながら、サイバー・バルカン現象という予測は当たってしまっているような気がする。どのくらい排他的であるかは別にして、掲示板や参加型のブログにおけるトピックは、訪問者のニーズに合わせておそろしいくらいに細分化されていると思う。インターネットと社会関係資本との関係については、「ネット上で形成された資本が、ネットを越えた現実の世界での生活にとって、どのような利益をもたらすのか」という点が興味深い。ここでも、何を従属変数と見なすかが問題になるだろう。たまたま訪れた掲示板でえた、好きな漫画についてのあまり知られていない情報などは、漫画好きの友人との関係をより良好なものにしてくれるかもしれないが、こういうのも「社会関係資本の効果」といえるのかな。インターネットについては最後の章でも議論されるようなので、楽しみにしておこう。