孤独なボウリング: 移動性とスプロール

 パットナムによれば、市民参加の低下の原因は世代的変化とテレビだという。それ以外の候補となる要因は、決定的な原因だと断定するために必要な、下記の条件を満たさないためである。(p. 227-228)

  • 提起された説明要因は、社会関係資本及び市民参加と相関しているか?
  • 相関は擬似的でないか?
  • 提起された説明要因は、関連する方向に変化しているか?
  • 提起された説明要因は、市民参加の減少の原因ではなく、結果となっている可能性はないか?

 人々の移動性は、社会関係資本の低下にとって、何の責任も負っていない。よく移動する人は定住志向のある人に比べて、教会やクラブへの出席、ボランティア、コミュニティでの仕事が少なくなる傾向がある。また、移動する人だけではなく、移動性の高いコミュニティ自体も社会関係資本にとって好ましくないものだという。高流動コミュニティでは犯罪率が高く学校のパフォーマンスが低い。それでも、この移動性が社会関係資本の低下に対して潔白なのは、過去50年間を振り返ったとき、アメリカ人の移動性が上昇した、という証拠が上がらないためである。移動性という「容疑者」は上記の三番目の条件、「関連する方向に変化しているか」といった要件をパスしていない、というわけなのだ。

 ただし、移動の量そのものに変化はなくても、その質が変われば、社会関係資本の総体に何らかの影響を及ぼすかもしれない。アメリカでは農村や小都市に比べて、大都市や郊外では市民参加のレベルは低い。とくに郊外は、社会関係資本を蝕むような性質をもっている。内的には均質で、外的には異質性が高いという郊外居住地の性質、および職場と家庭との距離的な分断は、市民参加を押しとどめる効果をもつ。実際、1950年以降、郊外居住者が増加したことによって、市民参加は確実に低下していった。それでも、この郊外化の影響は、低下全体の10%程度を説明するに過ぎないという。

 この章で気になったのは、パットナムが言及している郊外の性質について。「郊外化」というと、何となくよく批判の対象になっているな、というイメージはあったのだが、すくなくとも社会関係資本に対する郊外化のマイナスの影響については理解できた。郊外化が進むと、コミュニティは個別には等質だが集合的には異質になっていき、人々のさまざまな属性によって断片化された「ライフスタイル小群落」が生成する、という。要するに、あるコミュニティ内部にはとてもよく似た属性をもつ人だけが集まって生活を送っているが、ひとつ隣のコミュニティにはまったく異なる(しかしその内部はまた等質な)人たちが住んでいて、これらコミュニティ間の交流はほとんど(あるいはまったく)ないのである。こういったコミュニティでは「結束的」な社会関係資本さえ蓄積されることは少なく、住民は互いに無関心で、政治参加にも消極的であるという。

 郊外の多くはテーマパークに似てくるようになり、そこでは建築が統一され、コーディネートされた施設やブティックが備わっていた。1980年代には「共有権益開発」と「ゲート付きコミュニティ」が増加を始めた。そこでは住宅所有者組合とガードマンで警備された目に見える物理的な壁によって、それぞれのコミュニティを近隣から区別する不可視の社会学的な壁を補っている。(p. 254)


 アメリカでは、このような「ゲート付きコミュニティ」がけっこう増えてきているらしい。ゲート(塀)で囲まれた空間に、まったく同じ建物が立ち並び、さらにゲートにはズラリと監視カメラが付いていてゲートの内外を日夜見張っている。

 社会関係資本とはあまり関係ないが、「ゲート付きコミュニティ」は監視社会論から見ても危惧すべきものだと思う。監視カメラがあれば、確かに外部からの不審者の侵入を事前に防ぐことができるかもしれないが、自分たちの生活もまた常に監視されていることになる。こうした「監視化」を住民はどのように考えているのだろうか。自分たちも監視されるという「不快さ」と引き換えにしてでも、「防犯」や「安全」のほうが大切だと思っているのだろうか。このあたりの微妙な感覚を社会調査で聞けたら面白いかもしれない。