リキッド・モダニティ: 仕事

 前進・進歩というのは過去の足跡のなかに確かめるものではなく、いま、この瞬間に生きている人間が担うべきことだ。前進するためには、「いま」をしっかりとつかんでおく必要がある。そして、実際に前進をおしすすめるためには、仕事・労働に従事するというのがよく知られたやり方だ。社会の不確実性が高まることによって、現在に対する自信と伝統的な労働環境が揺らいでいるというのが、流体的近代で起きていることである。

 進歩に必要な、現在に対する自信が揺らいでいるのには、ふたつの理由がある。ひとつは、社会を進歩させる主体の欠如、あるいは主体からの権力の欠落である(ex. ヨシュア記的言説の世界の崩壊)。もうひとつは、仮に主体に権力があたえられたとしても、主体にはなすべきことがわからなくなっている、という状況だ。これまでにあった社会に対するヴィジョン(マルクス主義、経済自由主義)はその不可能性を露呈しているし、それにかわる新しいヴィジョンにもうさんくささがつきまとっている。われわれが進むべき方向は見えてこない。

 近代における生活は所与のものではなく、「つくられる」ものだという性質はいまも昔も変わっていない。もし、いま、進歩が見えにくくなっているのであれば、それは進歩の意味が極度に「個人化」したせいだ。現代社会におけるこのような特徴を、バウマンはベックを引きながら、次のように指摘する。すなわち、現在、生活設計や行動決定の中心は自分自身だ、という個人主義的な状況がつぎつぎと生まれ続ける傾向にある。さらに、みずからの社会的アイデンティティは自分で選び取る必要があり、選択にともなうリスクも自分で背負わないといけない。個人ひとりひとりが、社会性を生産する単位になっている。

 進歩が個人化するまえでもあとでも、進歩の可能性はまったく変わっていない。また、未来を設計するためには、現実を掌握する必要があるという状況も変わっていない。変わったのは、つかんでおくべき現実が個々人の現実になったという点と、生活のさまざまな面に浸透している不確実性のために、大部分の現代人にとって、現実をとらえることがまったくできなくなっているという点だ。


 近代では仕事に最高の価値が与えられたが、これにはそれなりの理由がある。仕事のもつ魔術的な力は、形のないものに形を、はかないものに永続性を与える。他方、未来を支配し、混沌を秩序に、不確実性を確実性に変えるというのが近代的野心だった。近代的野心をかなえるために、仕事の魔術性は非常に有効だった。仕事が生む利益には多くのものがあるが、近代的野心との関係でいえば、あらゆる利点に通じているのは、秩序形成への貢献だといえるだろう。そして仕事がこのように理解されるものである以上、仕事とはすべての人間が従事すべき共同の努力であった。

 世界が不確実性におおわれるようになると(あるいはそういうふうに目に映るようになると)、仕事の価値はしだいに貶められていく。

 人間の努力に完成の日がなく、また、努力が確実に結実する見込みもないなら、目標に向かって長期的、永続的に働きながら、「総合的」秩序を、コツコツ築いていくことは、ほとんど意味がないようにみえる。いま現在、足元がおぼつかないのであれば、未来を計画にふくめることはむずかしい。……連続性は、もはや、進歩の特性ではない。進歩の属性であった蓄積と長期性は、エピソードごとに異なるような要請にとってかわられた。(p. 178-179)


 「仕事は一回かぎりの行為に堕落し、目先のものを目的とし、目先の目的に触発されるのと同時に呪縛されるものとなった」(p. 180)。こうなると、仕事は重厚な資本主義、堅固な近代において占めていた位置を失い、自己、アイデンティティ、生活設計の足場にはなりえないものになる。未来に結びつかない一回かぎりの仕事がもっている価値は、もはや審美的なものにすぎない。未来世代や国益、人類への貢献から仕事の満足は生まれず、仕事をする人間にとって楽しいか、愉快かどうかが関心事になる。


 労働に高い価値が置かれていた時代、労働は多くの富と同時に不平等を生み出す源だった。こういった傾向は、ここ200年の間に生じた出来事である。この新しく生まれた状況を理解するために、これまでとはちがった概念と認識上の枠組みが必要だった。

 労働が新しい産業秩序をもたらすことができたのは、それが生活から切り離されたためである。旧態依然とした地方的/共同体的桎梏を打ち破った労働力はさまざまな用途に使われだし、労働力の保有者はこれまでとは異なる組織の一部に所属することが可能になった。古い秩序を取り壊したあとには、新しい秩序を築き上げる必要がある。新しい秩序のもとでは、仕事を効率的におこなうことが至上の目的となった。ものごとを予測不能の気まぐれや偶然にまかすことは許されない。改善、効率化、利益の向上が望めるのに、それをしないで現状にとどまることも許されない。耐久性を必要とするため、大きく堅牢でないといけない新秩序はフォーディズムによって与えられた。フォーディズムのもとでは、資本と労働は相互依存の原理にからめとられ、互いに片時も離れることができなかった。

 労働の買い手と売り手が、長期間、密接に結びついて離れないという経験からは、「長期的」精神構造が生じる。また、「全員の利益」といったものが現実的であればこそ、買い手と売り手の共存形態が模索されることにもなる。不確実性と柔軟性が支配する現代にあっては、上記のような構図は過去の遺物である。いまでは転職が当たり前になっているし、雇用契約は短期的、契約更新型、さらには契約のないものと、非常に不安定だ。労働者の生活は不安であふれかえるものになっている。


 雇用をめぐる現在の不安定さは、その深刻さにおいて前例がない。他者と協力して不安定さを克服することはできない。誰が不安定という災難の犠牲者になるのかもわからない。不安定さがもつこうした性質は「個別化」をすすめる。

 だれがどのように分断され、犠牲となるか予測できないのであるから、「共通の利益」などという考えは、たんに漠然とした、実質的価値のないものとなる。

 いまこの時代の恐怖、不安、不満は、たったひとりで、耐えねばならない。これらが蓄積され、「共通の大義」へと集約されることはないし、明確な、かたちある主張に変えられることもない。(p. 192)


 短く不安定な、そして将来への確実な展望が消失した雇用は、エピソード的なものになった。昇進と解雇に関する規則のほとんどは否定されたり中途変更されたりした。このような状況で、相手に対する忠誠心や献身が芽をだすとはとても思えない。他者との共同作業に対する興味も色あせた。他者とのかかわり方は長期的関係ではなく、せいぜい一時的連携といったものだろう。

 こうした状況のなか、移動性と浮遊力をえた資本による、一方的な労働の切り離しがはじまった。資本の側から見れば、特定の労働と長期的な関係を結ぶことは、まったく非合理的なことになった。関係の締結は機動性の喪失、他の選択肢の放棄、競争力の低下につながる。いま必要とされている戦略は、「人員削減」、「規模縮小」、「分割」といったものである。

 さらに、利益の源泉がかつてのように物質的なものではなくアイディアに変わってくると、資本にとって喫緊の課題は多くの生産者を集めることではなく、より多くの消費者の注意を引くことになる。アイディアはいったん生産されれば、それに振り向く人間の数に応じていくらでも富を生み出すからだ。いま相互依存といったことをまともに云々できるのは、資本と消費者からなる領域だけだ。資本にとって、労働力はもはや二次的な関心にすぎない。

 軽量資本主義社会における不安定さも、そうした不安定さをなかを生き抜くことができる人間にとっては、深刻な問題ではないのかもしれない。現代のエリートにとって、新奇さ、不安定、不安、雑種性は好ましい価値をもったものであるという。先行きが見えなくなっても、そうした現況に適応して生きていくだけの用意があるものだけが、流動化した社会のなかの頂点に近い位置に立つことができるのだ。

追記――引き伸ばしの短い歴史

 近代における時間の意味は、「瞬間」の連続としてとらえられる。それぞれの瞬間は異なる価値をもち、現在からよりよい現在への進行として、時間の流れは認識される。瞬間の価値は次に起こることによって判断される。現在の効用に甘んじることなく、より高い価値へと近づこうとすることが、先延ばしの意味である。

 達成や満足の先延ばし(さらに、達成や充足の瞬間に生活の意味が喪失してしまわないように、先延ばしの先延ばしをすること)によって、目標の価値はいちだんと高まることになった。欲求充足の延期によって、それは人生の究極の目的となる。物質の価値が低下するのではなく、物質の獲得は禁欲と先送りの賜物だと見なされるようになる。禁欲の強さはより大きな享楽の機会に、貯蓄の多さは自由に使えるお金の増大につながる、といったように。

 先延ばしはその内面にふたつの衝動をかかえている。一方は禁欲、他方は充足である。前者からは、先送りを続けることによって、仕事それ自体に価値を見出すような労働倫理が、後者からは、仕事は欲求充足のための手段でしかないという別の価値観が生じる。先延ばしの原理は固体的近代でも流体的近代でも機能するが、近代後期に見られた消費社会への移行は、先延ばしがもつふたつの価値観のうち、前者から後者への重点の変化だったと考えられる。

 消費美学によって後押しされている欲求充足の形態は「カジノ文化」とでも呼べるものだ。カジノ文化では先送りのはじめと終わりはほとんど重なり、欲望と充足の距離は恍惚の一瞬へと短縮される。そこでは、瞬間的な自己充足以外は重要視されない。先延ばしの原理に反するこうした充足の特徴は、その寿命がとても短いという点だ。カジノ文化は先延ばしを攻撃するが、同時に充足の延長も攻撃する。労働のように定まったルーチンがない欲望は、繰り返し充足されないかぎり生き残るすべはない。しかし、充足は欲望の終着点でもある。そこで即座に達成されるが、欲望の継続のために、完全ではない充足、途中で放棄される充足が必要になるのである。


 雇用の不安定時代では、「即座の欲求充足」が合理的な選択のように見える。明日はどうなるかわからないのだから、今手に入るものは、手にしておくことにこしたことはない。長期的な目標の設定や未来への期待は危険性に満ちている。こういった時代には、他者との関係も必然的に変化する。連帯や協力は生産されるものではなく、消費されるものと見なされ、それにふさわしい取り扱いを受けるようになる。消費社会の倫理に合うように、関係(パートナーシップ)も即座の充足がえられなくなると、即解消されることになる。不安な人間は神経質であり、欲望充足の妨げになるものに対して不寛容である。欲求は実現されることよりも、されないことのほうが多い。このような状況のなかで、欲求の個人的な追及にとって関係のない事柄や人に対して、寛容である理由はない。

 社会の消費化と人間の絆の崩壊のあいだには、もうひとつのつながりがある。生産には他者との協力が必要だが、消費はひとりでおこなうものだ、というのがそれにあたる。

 進歩を追及するために必要とされていたもの、すなわち自分自身、他者、組織に対する自信が、つぎつぎと失われていっているというのが現代社会の特徴だ。企業による雇用が不安定になったとき、上記三者に対する信頼はなし崩し的に衰退していった。将来を展望したり、現状を批判的に再検討したりするためには、まずもって、現在をしっかりと把握することが必要だ。自身や他者、組織への信頼が失われ、不安定な社会のなか、現状把握があやふやになってしまった人間に、将来を展望することなどできるはずもない。信頼の崩壊によって個人の生活が影響を受けているだけではなく、政治参加や集団行動に対する関心も低下の憂き目にあっている。