アメリカのデモクラシー 第一巻(下): 7章、8章

合衆国における多数の全能とその帰結について

 アメリカでは多数派が力をもっている。これは民主政治の本質に由来する。また、アメリカでは立法部の構成員は選挙によって直接選出され、その任期も短い。立法権が多数者に従う傾向は法律によって強化されている。これらの事情に加えて、アメリカでは多数の力を優越で抵抗しがたいものにするような、いくつかの特殊状況が働いている。ひとつは「一人の人間より多くの人間が集まった方が知識も知恵もあり、選択の結果より選択した議員の数が英知の証である」(p. 141)という考え方だ。もうひとつの原理は「最大多数の利益は少数者の利益より優先されねばならない」(p. 142)というものだ。アメリカでは党派間の対立も目立ったものではなく、またどの党派もいずれ自分たちが多数派に回ることができると期待しているため、こうした原則はそれほど抵抗なく受け入れられている。

 多数派が絶対的な力をもつことには、いくつかの潜在的な危険性が付随する。多数派による権力の濫用はじゅうぶんに考えられる。ただ、トクヴィルはひとつの国家のなかに複数の政治原理を立てることを推奨しているわけではなく、他の力に勝るひとつの力の存在は不可欠だと考えている。問題なのは、その力が全能をもってしまうことであり、全能が暴政の芽となりうることについて、民主制と貴族制との間に違いはない。

 アメリカにおける多数派の圧倒的な力は、思想に対する影響力のなかに見ることができる。多くの社会において、思想は物理的な力に効する効果的な手段だと見なされている。アメリカの多数派には物理的な力に加え、精神的な力が備わっており、これが国民の行動と行動の意欲を縛っている。アメリカにおける思想の自由は、多数派が決めた枠のなかにしか存在しない。多数派の意見とぶつかることは、市民性の放棄を意味する。多数派による思想の統制は、大作家や偉人の誕生を阻む。アメリカに精神の自由はない。

 アメリカ政府が滅びることがあるとすれば、それは政府の無力によってではなく力の悪用によってである、とトクヴィルは考えている。アメリカにおける諸州の政府の権力と活動性はじゅうぶんに大きく無力といえるものではまったくない。その権力の権化たる多数派の全能が少数派を絶望に追いやり、少数派に実力に訴えでることを強いるようになったとき、自由は失われるだろう。

合衆国で多数の暴政を和らげているものについて

 このような危険性をはらんでいる多数の暴政だが、アメリカにはそれをある程度和らげる政治制度が存在する。そのひとつはアメリカには行政の集権が存在しないことであり、もうひとつのより根本的なものは、法律家の権威と政治制度としての陪審制である。「法律家に権威を認め、政治に対して法律家が力を揮う余地を残したことが、今日、民主政治の逸脱に対する最大の防壁となっている」(p. 169)とトクヴィルはいっている。

 法律家は法律を研究することをとおして秩序や形式を好むようになる。また自由よりも合理性に重きを置き、変化に対しては保守的な態度をとる。このように法律家には貴族的な性質が備わっているが、法律家がもっとも力を発揮することができるのは民主制の社会においてである。というのも、民主制の政府には金持ち、貴族、君主といった特権階級は存在せず、法律家は人民によって選ばれる唯一の知識階級だからだ。したがって、法律家の趣味は貴族や君主と似通っているものの、その利害は人民と共有している。「法律家は民主政治を好むが、民主主義の傾向に染まったり、その弱点を見習うことがない」(p. 174)。

 法律家は民主主義を覆そうとは考えていない。上記のように、法律家が力を行使する際に民主主義は都合がいいからだ。法律家が民主主義に従うことは、法律家に対して人々を無警戒にさせる。このような政治的階級の存在は、民主主義の弊害を抑え、民主主義を存続させるさせるために決定的な役割を果たす。

 アメリカの人民が情熱に駆られ、あるいは観念に引きずられるとき、法律家はほとんど目に見えないブレーキをきかせて、人民をなだめ、引き止める。人民の民主的本能に対して、法律家は秘かにその貴族的傾向を対置する。人民の新しもの好きに対して古いものへの迷信的な敬意を、壮大な計画に対して厳密なものの観方を、規則無視に対して形式重視を、そして人民の血気に対しては法律家の習性である気長なやり方を持ち出すのである。(p. 179)


 もちろん法律家といえども世論の動きに譲らざるをえないことはある。しかしながら、アメリカの民事法制のなかに、法律家の力の大きさを見てとることができる。政治の法制を一新したアメリカにあって、民法にはほとんど変更が加えられなかった。これは、多数の意志がその考え方を押し通すのではなく、法律家の意見に耳を傾けたことの何よりの証拠である。

 以上のような法律家独自のものの見方や考え方、いってみれば法律家精神を、人民のあらゆる階級に行き渡らせるうえで特別の機能を担っているのが、民事に対する陪審制の適用である。主権者を陪審員として民事事件にかかわらせることで、法律家の精神的習性の一部を、すべての市民に植え付けることができるようになる。陪審制によって人は衡平原理(隣人を裁き、隣人に裁かれる)と行動の責任を学び、自分の仕事とは別に果たすべき義務が社会に存在することを知る。また、陪審制をとおして人民は、社会のもっとも知的なメンバーと交流することで、自らの判断力と理解力を増強する。法律家の権力、あるいは影響力が社会のあらゆる層まで浸透することは、民主的な社会の形成と維持にとって間違いなく役立つものである。