リキッド・モダニティ: 個人

 オーウェルとハックスリーによる未来予測は、一方は荒廃と貧困、他方は富と浪費を描いたものであったが、厳しい統制社会に対する不安という点でヴィジョンは一致していた。そこでは、私的自由がゼロになるだけでなく、命令や規則に従順な人間から自由が憎まれる世界でもあった。一握りのエリートによって、世界は予測可能なように設計されていた。オーウェル的、ハックスリー的悪夢は何よりも管理者の存在を前提としていたという点で、それは「重い近代」像にほかならない。

 単調さ、均整、反復によって特徴付けられる重量資本主義社会は、ひとつの原因とひとつの結果とが完全に対応する「秩序ある」社会である。このような社会認識に説得力をあたえていたものにフォーディズムがある。

 フォーディズム型工場――設計と実施、命令と恭順、自由と服従を細かく分離し、それぞれの対の前者から後者へ、命令がなめらかに伝達される仕組みを確保しながら、前者と後者をしっかり連動させる工場――は、疑いなく、秩序達成を目標とする社会工学の、歴史上最高の成果だったといっていい。(p. 74)


 重量資本主義では、巨大な工場、重機械、大量の労働力にしばられることによって、経営者と労働者の運命はともにあった。経営者は労働者を職場につなぎとめるために、強固な境界を引くことにも注意していた。これに対して最近の「軽量資本主義」社会では、労働者の流動性こそそれほど高まっていないものの、資本はまるで旅行者のように自由に飛び回っている。労働者にとって、目標や手段、さらには自分が果たすべき役割は不明確になってきている。秩序が通常であった世界は終わりを迎えつつある。


 ウェーバーは道具的理性の勝利を信じて疑わなかったが、それと反対のことが起こっているというのがバウマンの見方である。

 歴史の到達目標地点があきらかで、行動の目的になんの疑念もなく、決定的であるようなとき、人間は関心を目的達成の手段だけに向けるのであって、その意味で、未来は手段にこだわるものになるはずだった。(p. 77)


 重量資本主義から軽量資本主義への移行過程で、追及すべき目的を「絶対化」する権限をもった最高司令部は失われた。目的設定の問題が再浮上し、目的遂行のための手段を判断することは重要ではなくなる。手段に合った目標のうち、どれに優先権を与えるのかということが最大の関心事になる。こうした状況にあっては、手段はあっても目的がないというのが、人間にとっての悩みの中心となる。

 世界を管理、監視していたものがいなくなったとき、その真空地帯を埋めたのは無限の選択肢と機会である。流動的近代社会には秩序からはみ出して勝手な行動をする人間を取り締まる「ビッグ・ブラザー」への恐怖は存在しない。しかしながら同時に、なすべきもの、もつべきものの選択に際して、やさしく導いてくれるような存在もいない。能力を見つけ、発展させ、それに合った目的を探しだすといった仕事は、すべて自由な個人にまかされることになる。そして先述のように、いまや世界には選択肢と機会があふれており、そのうちどれを選んでもいい。ただしどれを選んだとしても間違いではないが正解だともかぎらない。行動に過失がないということは、行動の良し悪しが決められないということであり、したがって正しい選択をすることもできない。


 他者が決めた目的を他者が決めたやり方で追求すればよい社会では、権威ある指導者が何よりも必要とされた。軽量資本主義の世界では、個人は自由に行動し、その責任を負うのも自分自身である。物事に通じた人間はいるが、それは指導者ではなく助言者にすぎない。助言者が扱うのはすべて私的な問題であり、助言を受けた本人が、本人のためにできるようなことにしか触れず、他者とのかかわりを避け、自分自身のことに集中するようにアドヴァイスがなされる。

 助言治療をうけたあとも、治療をうけた人間が、まえと同じようにひとりぼっちであることには変わりはない。……人間はひとりで行動し、悪い結果は個人が負い、失敗の責任は他者に転嫁せず、すべて本人がひきうけることを、助言は、内容のいかんにかかわらず、前提とする。(p. 85)


 助言を受けようとするものがまず欲するのは実例である。個人的な問題を、個人的努力のみによって解決しないといけない以上、似たような問題に直面した個人が、それをどう克服したのか、実例をもって示してほしいというのがかれらの望みである。さらに、実例は不幸の原因を究明するのにも有用である。他者の苦難を参考にしながら、みずからの不幸の原因をつきとめ、それを克服するための方法を探す糸口にする。漠然とした幸福の希求に現実的な目的を与えるためには、まず同じように曖昧である不幸を、具体的なかたちで実感することが必要なのである。

 問題解決の実例を、また公的言語化された不幸や幸福の感覚を求めて、人々がトークショーの前に群がることに何の不思議もない。トークショーでは、私的な問題が、あたかも公的な議論に向いているかのように見なされるようになる。元来、公表には不適切とされていた私的問題が、公共領域を占領する傾向が一般的となりつつある。こうした傾向のひとつの結果が、大文字の政治の崩壊である。大衆の眼前にさらされたとしても私的問題は私的問題に変わりないが、本来そこにあるべき「非私的問題」から居場所を奪うことになる。いま、「公的課題」といえば公人の個人的問題にすぎないものとなり、幸福な社会、公正な社会といった民主政治の伝統的問題は、公的な場から姿を消していった。


 初期近代と近代の現段階との対比は、生産社会と消費社会との対比としてとらえることもできる。生産者の生活ではいろいろなことに標準が定められていて、その標準のなかでやるべきこと、やってはいけないことが決まっている。他方、消費者の生活は標準によって律されているわけではなく、その時々のチャンスをつかんだり、未知のものに対して欲望を発達させたりする能力に関心が集まる。

 消費社会における「買い物」中毒の原因を単一の要因に還元することは難しい。けれども、見逃してはならないのは、それが途切れることのない不安、自身欠如の不満や焦燥感との苦闘からきているという点だ。消費社会においては、どんな実例、助言、あるいは商品も、永遠に満足を与えてくれることはない。個人は満足や安心を得るために買い物を続けるが、同時に失敗や不注意をおかすかもしれないという不安から解放されたいと望んでいる。どんな商品にも賞味期限があり、またいちどに不安を解消することができない以上、確実性の希求は買い物をし続けることによってしか充足されない。


 現代人の苦悩は、存在の一貫性と統一性とに確信がもてないことにある。芸術作品のような統一性をもった生活を作りたいという欲求が生まれ、人生を材料として作られるそれは「アイデンティティ」とよばれる。アイデンティティの追求とは、人生の流れを止め、調和、論理、統一をあたえることである。流体的なものを固体的なものにしようとする試みである。しかしながらアイデンティティ自体、固まるまえに溶け出してしまうようなものであり、生活の流動はアイデンティティによっておさまることはない。そうすると、固くて持続性があるものにアイデンティティをつなげておく、という別の考えが生じる。

 流動的近代においては、アイデンティティの象徴である「物」もまた、頻繁にその姿を変えるようになる。アイデンティティが何らかの商品やイメージにもとづいて形成されるものである以上、商品の変化に合わせて、人間の性格や感受性を作り直していく必要がある。アイデンティティの原材料がもろい世界では、外的世界の変化にすばやく対処できるように、柔軟性と適応性を備えていないといけない。

 今日の消費社会のおける自由とはアイデンティティを確立するために、商品を見てまわり、真の自己を拾い、捨て、動きまわれる機会のことを指している。適当なアイデンティティを好きな期間だけ所持し、気に入らなくなったら別のものに作り直すといった行為は、消費者の自由として開かれている。選択の幅と可能性が無限である(ように見える)ことは、ありがたいが、ありがたくない。

 こうした生活に危険はつきものだ。選択の自由という、本来、すばらしいはずのもののなかには、不確実性が汚点のように、残りつづけることになる。くわえて(これはたいへん重要なことだが)、買い物中毒の人間の満足と失望は、たんに陳列された品物の幅だけでは決まらない、ということも指摘されるべきだろう。すべての選択肢が現実的であるわけではない。どのくらいの数の選択肢が現実的なのかは、選択される商品の数によって決まるのではなく、選ぶ側の能力によって決まるからだ。(p. 115)


 結局、「選択と購買」中心の生活は、自由の再配分にはなっても解放の媒介とはならない。アイデンティティの同定はすべての人間が例外なくおこなう作業ではあるが(したがってある意味で「公的課題」としての性質をもっているといえるが)、個人はそれを非常に異なった条件下でおこなわないといけない。こうした作業は協力と団結よりもむしろ、分裂と競争という状況をつくりだすものである。