リキッド・モダニティ: 時間/空間(続き)

 時間と空間は、かつて人間の生活・労働のなかでほとんど同一のものとして扱われていた。一定の時間に移動できる距離が「空間」で、その移動にかかるのが「時間」だ、といったように。それが、人間や動物の足よりも速く移動することができる乗り物が発明されたことで、空間と時間は分離した。移動にかかる時間は距離=空間の属性ではなくなり、移動技術の属性になった。

 時間は人間にとって操作不能なのものではなくなり、ある人たちは別の人たちよりも時間を道具として使うことで、より速く、より遠くへ到達することができるようになった。高速で動けるものほど、空間の支配や、支配をめぐる競争相手の排除において、優位に立つことが可能だ。このような人間の行動の変化をもって、近代の開始を告げるのもひとつの切り口だろう。「時間の空間からの解放、時間の人間的創造力、技術力への従属、空間征服、領土拡大の手段としての時間の利用をもって、近代の開始とするのも悪くない」(p. 147)。

 これ以降、時間による「空間征服」がはじまった。「加速された動きはより広い空間の獲得につながり、空間拡大の唯一の手段となった」(p. 147)。時間の活用能力の差は、空間支配の差という不平等をもたらす。そして、空間をどれだけ支配することができるかは、近代において権力の源泉であった。すなわち、完璧に防衛され、支配された領域をもつものが強者、侵入の危機にさらされ、境界が不安定な領土しかもたないものが弱者だといってもいいすぎではなかった。


 いま終わりをむかえつつある「重い近代」において、何よりも重要だったのは、できるだけ大きな空間を支配することであった。先述のように空間の支配にとって肝要なのは、移動の速さである。ただし、いったん空間を支配した後には、時間をしたがえることが、空間の所有において決定的に重要だった。同じ長さに区切られ、順番が決まっていて、単調に流れていくといった、時間の画一性・規則性がなによりも求められた。このようにしてできたのが、巨大な建物のなかに重い機械設備があり、互いにしばりあって動くことができない資本と労働者が存在するといった、近代型の工場である。工場労働の決まりきった時間の流れと、モルタルとレンガ造りの工場の塀は、労働者と資本の両者から移動性をうばうことにおいて効果的だった。

 軽い近代の到来により事態は一変する。移動の高速性は極限まで近づき、遠いところにある空間と、すぐそこにある空間とに、違いはほとんどなくなった。こうした状況では、空間を獲得するのにどれだけ時間がかかるか、といったことは空間にとっての価値とはなりえない。どこに行くのにも同じだけの時間しかかからないのなら、どんな空間もその価値は等しいはずである。

 ソフトウェアの時代である軽い近代においては、価値獲得の手段である時間の効率化は極限をきわめ、このとき皮肉にも、すべの目的において、すべての価値が均等化されることとなった。すべての空間に、まったく同じ時間で到着できるとするならば……、特権的な場所も、「特別な価値」をもった場所も消滅せざるをえない。……どこにでも簡単に行け、興味や「時流」にあわせて、場所をかえることも簡単なのだから、空間の維持・管理、土地の管理・耕作に、永遠の支出をつづける必要はないのである。(p. 154)


 重い近代でも軽い近代でも、支配者に必要な能力が「不確実性」であるという点は変わらない。自分の行動は標準にしばらせず予想外の行動をとりながら、他者の行動は基準にしたがって規制する。こういったことができるものが支配者になる。軽い近代においては、時間の瞬間性をもっとも体現できる人間が、不確実性の核心に近づくことができる。すなわち、支配者となれる。そして、資本だけがこの瞬間性を手にすることで、労働と資本との関係は変化した。重い近代における、だれも逃げ出すことのできない鉄の檻から、資本だけが解放された。

 労働が肉体労働から非肉体労働へと変わることで、労働のほうもパノプティコンから脱獄することができた、とはいえるかもしれない。しかし、労働を直接監視・監督しなくてもよいという自由は、なお資本の側に有用なものだといえる。浮遊力をえた資本は、その時々に応じて、必要な労働だけを活用すればよい。対する労働のほうは、単独では不完全なので、能力を発揮するためには資本の助けを必要としている。


 時間の瞬間化が人間の生活にあたえる影響はこれだけに限らない。時間の瞬間化によって、「長期的」、「永続的」、「継続的」といったことは、ことごとく価値を失っていった。もし、瞬間からあらゆるものをしぼりだすことが可能だとすれば(瞬間の容量の無限大化)、長い時間をかけて何かをしても、瞬間が提供する以上のものをえることはないだろう。また、次から次へと改良版ができるにもかかわらず、同じものを「消費期限」をこえてまで永遠に所有していることに、価値を見出すことは難しいだろう。さらに、継続性が重要なのは、私たちが今日会っている人とは、明日も会うことが確実であり、したがって、信用と信頼にもとづいて共同作業に従事することが、お互いにとって利益が大きいという状況においてである。瞬間性時代では、私たちは明日会うかもしれないし、会わないかもしれない。会ったとしても、まえに会ったときとは違う自分たちになっているかもしれない。このようななかでは、手っ取り早くえることができる利益を優先するのも、理性的な選択のひとつである。

 継続性や永続性に無関心な、同様に行動の結果や他者に与えた影響の責任に無関心な文化がどのようなものか、想像することは難しい。瞬間性の到来によって、これまでの生活に関する知識や習慣の多くが、役に立たないものになりつつある。