リキッド・モダニティ: 時間/空間

 連帯と絆が崩壊した流動的近代にあって求められているのは、共同体であるという。ここでいう共同体には、差異はあってもそれは安全性が保証されたものであり、対立を生んだり、妥協が必要だったりするような本物の差異は存在しない。公共の場は、限られた人間だけが近づける守られた区域へと矮小化される。このような場において、知らない人との交流に不可欠な「市民性」が養成されると期待することはできない。

 知らない人同士が出会うときは、知らない人同士が出会うなりのある種の技術が要請される。そうした技術のことを、バウマンはセネットを引きながら「市民性」と呼んでいる。市民的であるということは、公的な仮面をかぶることで、個人的な感情を切り離し、純粋な人付き合いができるようになることをいう。そして市民性の涵養にとって何よりも大切なのは、居住者が市民性を身につけることができるような、市民的な社会環境を都市自体が備えていることである。

 都市的環境が「市民的」であるとは、また、市民的であろうとする個人の態度に適した環境とは、いったいどんなものなのだろうか。なによりもまず、公的ペルソナとして、人々が共有できる空間をそなえた環境のことである。……共通利益が個人的利益の総計をこえる環境、個人的努力を積みあげただけでは達成できない目的を共有する環境、個人的関心や欲望をすべて記録したリストより、さらに長い、項目の多い問題リストをかかえる環境のことである。(p. 126)


 現在、たちどころに増えているのは、公的でありながら「非市民的」な空間である。そのような空間の特徴としては、日常生活との連続性がなく、自己完結的で、純化されているといった点をあげることができる。こうした空間では、差異は排除されるか、同一化されるか、判で押したようにあらゆる行為が均一化されるか、まったく認識されないかのいずれかである。差異を差異として受け止めることはおこなわれず、空間内ではすべてが同じように見える。生活状況が多様化するなかにあって、差異の欠如から生まれる「共同体」意識は魅力的だ。みんなが同じであれば、話し合ったり、互いに関与したりする必要はない。

 市民的であることの要点は、見知らぬ者と関係をもつにあたって、変わった点をかれらの欠陥と考えないこと、変わった点をなくすよう、あるいは、見知らぬ者を見知らぬ者たらしめている特徴を矯正するよう、圧力をかけないことにある。一方、……「公的でありながら市民的でない」場所の共通の特徴は、相互関与を不要のものとみるところにある。(p. 137)


 差異と共存する能力の欠如は、見知らぬものへの恐怖を強め、均一性への欲求を強めると同時に、見知らぬものとの共存をますます不安に感じるものにさせる。市民性の欠落は、いわば自己増殖する。こうした状況では、見知らぬものと共通の目標を共有するといったことは、めったにおこなわれなくなる。ものごとの効果的な進め方は、共通の目標・利益の追求から、共通のアイデンティティによる安定へと変わっていく。

 市民性の欠落によって生じた「非市民的」空間やそこにおける共同体志向は、本能の一時的発作や非合理性のあらわれではない。いずれも、社会的絆の弱さ、流動性に起因する不安への予想された反動だった。