リキッド・ライフ: 個人

 個性的であろうとすることはアポリアである。現代社会では、誰もが個性的であろうとするよう枷をはめられている。個性的であることを拒否することに対して、社会は寛容な態度を示してはくれない。

 個人志向社会では、誰もが個性的でなければならない。少なくともこの点に関しては、この社会のメンバーは、まったく没個性的であり、他の人と違うところもなければ独特でもない。むしろ逆に、お互いは驚くほどよく似ている。(p. 32-33)


 逆説的なことだが、「個性」とは「群衆精神」の問題であり、群衆からの強制的要求である。個性的であろうとすることは、群衆の中で他の人と同じように振る舞おう、事実上、みんなと同じであろうとすることを意味する。個性を持つことが「普遍的な義務」であり、誰もが直面する困難であるような、こういう状況下で、他人とは違う本当に個性的な人間になるために唯一できることは――混乱してくらくらしてくるかもしれないが――個性的にならないよう努めることであろう。もし、そんな芸当をこなすことができればだが……。また、もし、その芸当の(明らかに面白くない)結果を甘受し、それと向き合うことができればの話であるが……。(p. 33)


 現代社会では、ほとんどの人がこうした問題を抱えている。問題を解決するためには、外的圧力に侵食されていない、「本当の自己」を見つけ出す必要がある。しかし、これが「本当の自分」だと、自信をもっていうことができる人がどれだけいるだろう。そのことを確認するために、誰かの助けが必要になる。実際、いまの社会にはそうした助けを買って出るような人は、たくさんいる。ただ、このような支援者の世話になることで、問題が解決するかというと、そうではないことも多い。それどころか、かえって悩みが大きくなることすらある。

 たいていの場合、自己発見の旅は、グローバルな見本市を巡っていく。そこでは、「これよりもいいものは見つからないでしょう」と、個性的になるためのレシピが大量に売り出されていて、ショーケースに展示されている自我の組み立てキットはどれも、最新流行のデザインに沿って工場で大量に生産されているものである。……次第に、状況が見え、腹立たしくなってくる。自分にある本当に個性的で、他の人はなかなか持っていない特徴は、みんなが持っている、ありふれたものになるまで価値が認められないし、その価値が認められたときには、非常に広く流通してしまっているのである。

 つまり、個性というものが、自分を解放して自己を主張しようとすることであるなら、それは、はじめからアポリア、つまり解決不能の矛盾を背負わされてしまっているのである。個性的であるには社会が必要である。個性は社会の中で育まれ、社会に向けて示さなければならない。これは、個性的たろうとする人間の陶酔を覚ましてしまうような、憂鬱な真理である。しかし、この真理を忘れ、ないがしろにしたり、見くびったりするならば、確実に多くの挫折に見舞われる。(p. 36-37)


 個人的に取り組むことでは、事実上、達成不可能な課題が、まさに個人の仕事として強調されている。「自律的であること」、「自己の行為に責任をもつこと」、「自己改善に勤しむこと」、これらすべてを個人的におこなうことは、現代人にとって権利であると同時に義務にもなっている。

 個人であるという課題は、社会転換の果てに現れたのに、パーソナルな発見という見せかけを取っている。……個人であることの意義が高まったのは、生活上の営み全体をしっかりと包み込んでいた緊密な社会的な結びつきが――崩れ落ちたか、引き裂かれたかして――どんどん弱まっていったことを示唆している。共同体が、そのメンバーの生活を規範的に統制しようとする力や関心を(あるいは力も感心も)失ったのである。……こうした力を失ってしまったために、「人間の行為にどう型をはめ、どう調整したらいいのか」という問題が露わになってしまった。つまり、それは選択や決定の対象、つまり意図的な努力の対象として、思いめぐらし、気にかけなければならない事柄となったのである。(p. 40-41)


 人生の指針を定めることや自己形成は、かつてであれば共同体の流れに身を委ねることで、あるていど達成することができた。共同体が失われ、「個人」という考えがあらわれるようになると、自分で自分を築き上げる必要性が、人間の権利として主張されるようになった。共同体に代わって新しく生まれた社会的権力は、ミクロな空間でおこなわれる対面的な人間関係の領域を、関心の埒外においている。ミクロな空間では、どんな手段でも道具でも、自分にとって都合がよいように、自由に使ってもよい。しかし、この「自由」を額面通りに受け取ることは可能だろうか。

 対面的な状況ではたえまなくやりとりがなされ、その中で個性が主張され、そして日々調整し直される。「個人」であるとは、やりとりの中で起こることやその結果について、他人のせいにしないで責任を引き受けることである。しかし、こういう責任についてまじめに考えられるようになるためには、行為者が物事を進めるやり方を自由に選ぶ権利を持っていると想定されなければならない。「自由な選択」はフィクションかもしれない……。しかし、……フィクションといえども、……その圧力は「リアル」なものだから、……消えたりしないし、ましてや、うまいこと出し抜いてやろうとか、無視してやり過ごそうなどとすれば、ただでは済まされない。……個人志向社会においては、わたしたちはみな、一人ひとりが権利の上では個人である。……有無を言わせぬ形で圧しかかってくる「社会的事実」の力により、われわれはみな個人なのである。

 自由に選択する権利と義務があることが個性の前提である。それは暗黙の前提であったり、はっきり認められた前提であったりもするが、いずれにしても、その前提だけで、自由に選択する権利がしっかり行使されることまで十分に保証されるわけではない。……自由な選択は、多くの男女にとって事実上、ほとんど常に手の届かないところにある。(p. 42-43)


 個性的であろうとして奮闘する個人のために社会が用意する対応策は「消費主義」である。自分らしくあろうとする個人のために、それにふさわしい商品が提供される一方で、そうした商品は瞬く間に老朽化していく。また新しい商品があらわれる。「流行中」と「時代遅れ」のズレこそが「独自性」を測定するものさしになる。しかし、このような方法でつかの間の独自性を獲得することができるのも、それに必要な資源をもつ個人だけである。

 「権利上の個人」の岸辺から「事実上の個人」の岸辺へと至るフェリーの運賃は高額で、「事実上の個人」の岸辺でキャンプを張るには、もっと金がかかる。……個人化レースには参加制限がある。参加資格のある人々も、その競争によって二極化していく。(p. 48-49)


 問題はこれだけではない。二極化の趨勢はグローバルな規模で進行する。北米や西側に住む人々と、地球のそれ以外の地域に住む人々との生活格差は非常に大きい。さらに、地球に住むすべての人間の生活を同水準にまで押し上げることは、地球の容量をはるかに超えている。「個人であるということは、相当の期間、特権であり続けるだろう」(p. 51)。

 特権は二つの水準に見られる。まず擬似的に自律した一個の社会の中では、「解放され」成熟した消費者たちが、特徴なき大衆からの分離独立という主張を……掲げている。他方、特徴なき大衆の方には選択の余地などない。……「重層的に決定された」アイデンティティに「固定され」「身動きがとれなくなっている」。地球規模での特権に関して言えば、……飛び地の内部では、かつて権利と義務で緻密に編み込まれ解きようのなかったはずの絆に代わって急速にネットワークが形成されている。……他方、その飛び地の外に拡がっている広大な地帯で、個人という考えが持ち上がることは、移動と選択の自由の前兆であるというよりは、習慣的に張られていたセキュリティ・ネットの消滅を予感させる。(p. 51-52)


 グローバル化した時代において、知識階級は自らのアイデンティティの構築・再構築が容易になったことに喜びを見出している。このようなアイデンティティの創作作業を「異種交配」と、それを実践する人を「文化的混種」と呼ぶ傾向が見られる。

 一見、異種交配とは、混ぜ合わせることのようであるが、おそらくその見かけの背後に潜んでいる決定的な働きは、分離である。異種交配によって生まれた混種は、一卵性の血筋のどんな系譜からもすべて切り離される。……「異種交配」とは自律宣言、いやむしろ独立宣言である。(p. 55-56)


 異種交配によって生み出された混種文化は、他のどんな系統、親族集団からも、口出しされることがない。取り残された「他の人たち」から自分たちを切り離し、治外法権を獲得している。そのような本質を、「混ぜ合わせる」というイメージによって覆い隠しているという意味で、異種交配はイデオロギーだといえる。

 領土にかかわりなく往来するネットワークやグローバル・エリートが「どこでもない場所 nowherevilles」に棲息するように、「混種文化」のアイデンティティは、どこにも属さないことにある。自分より劣る「ローカルな」人々は、移動や選択の範囲を境界に制限されている。しかし、自分はその境界を公然と無視できるだけの自由を持っている。それが、「混種文化」のアイデンティティである。(p. 56)


 アイデンティティという考えは、いつでも、ふたつの力によって引き裂かれている。すなわち、集合性からの個人の解放か、個人の独自性を圧倒する集合性への所属か、である。一方では自由の獲得が、他方では安全性の確保が問題になっている。アイデンティティを組み立てるために、かつて準拠することができた枠組みは、もはやそのために役立てられるほど長期にわたって形状を維持することができなくなっている。また、他を差し置いて人々の支持を集めることができるような権威をもった枠組みも、もはや存在しない。

 アイデンティティの設定は結局、各自の問題になる。「異種交配」は、このような状況のなかから生まれたアイデンティティ形成のやり方のひとつである。それは、どこにも属さないことによって、他のどんなものとも違うことによって、いつまでも「確定できない」ことによって、特徴づけられるアイデンティティである。異種交配という形式での「不確定性」の実践は、確かに自由のあらわれであるかもしれないが、「追って通知のあるまで」のアイデンティティという不安定状態は、自由というよりむしろ、「勝利で終わることのない解放戦争に強制的に徴兵され、いつまでもその状態に置かれている」(p. 62)といった表現のほうが合っているように思える。


 不確実性の時代のなかにも、普遍的なアイデンティティがひとつだけある。それは、「選び続ける」というアイデンティティである。

 たえまない変化の中から確実に出現する「アイデンティティの核」が一つだけある。それも無傷であるばかりか、強化されて出現する。その「アイデンティティの核」とはホモ・エリゲンス、すなわち「選んでいる人」である。(p. 63)


 ホモ・エリゲンスは、アイデンティティを作り上げるための道具を手に入れる先として、商品市場に依存しているが、商品市場のほうも、ホモ・エリゲンスなしに生き延びることはできない。もし、顧客がある商品に完全に満足してしまい、自分の地位に到達点を見出し、それ以上の選択を終わらせてしまったら、それは商品市場にとって致命的なことである。そうならないために、商品市場は、古い欲望を鎮火しておくことに余念がない。


 アイデンティティ言説は、自由と安全という、ふたつの価値の探求に集約されている。どちらも幸福な生活を送るうえで不可欠のものであるが、これらふたつを両立させることが難しいということも、よく知られている。しかし実際は、安全のない自由が不十分であるように、自由のない安全もまた不十分である。確かに片方の増大は、もう片方の減少を意味するかもしれない。どちらをより重視するのかに関して、ある時点で支配的な見方というものがあるかもしれないが、問題は、そうした見方自体が自由に選択された結果かどうか、という点である。この選択の自由が行使される場合に限り、自由と安全・安心のバランスの変化が受け入れられる可能性が高くなる。

 もし、自由の増大が視野を切り開いたとしても、それが不自由から生じた結果であるとすれば――つまり何の事情も聞かれずに、押しつけられたり、画策されたのであれば――自由の増大は公正なものとはみなされにくいだろう。(p. 69)


 アイデンティティに関する言説は、とりわけ、自由と安全のどちらに重み付けをしてアイデンティティを語っているのかという点に関しては、人々の置かれている状況によって大きく異なる。アイデンティティという同じ言葉を用いながらも、それに込める意味合いは多様なので、話が噛み合わないのも無理はない。アイデンティティをめぐる言説がある人にとっては薬になるが、別の人にとっては毒になるのはこのためである。

 グローバル化の圧力に屈していくことを、個人の自律だとか自己主張の自由だとか言いたてる傾向が見られる。しかし、グローバル化の犠牲者やその巻き添えになる人は、さらなる自由が、自分の抱えている問題を改善してくれるとは考えまい。かつては、お互いを思いやる気持ちのつながりや人間としての絆、そして当たり前のように繰り返される暮らしに支えられて、安心・安全を感じていたこうした人々にとって、自分の困難の原因は、むしろ、そうしたつながりや暮らしが崩壊し、力ずくで撤去されたことにあると考えるだろう。(p. 71)