リキッド・ライフ――現代における生の諸相

リキッド・ライフ―現代における生の諸相

リキッド・ライフ―現代における生の諸相

 バウマン三冊目。本書も基本的には『リキッド・モダニティ』で提示された近代観を手がかりとして、現代を生きる人間の生活様式の不安定性が論じられている。

 『リキッド・モダニティ』や『コミュニティ』同様、グローバル時代を生きるエリートとローカルとの対比が随所に描かれているが、前二書以上にグローバル・エリートに対する批判が鮮明で、マルクス主義の影響も色濃いように感じた。興味をひかれた箇所をまとめていこうと思う。

序論

 リキッド・モダニティと密接に結びついたリキッド・ライフの性質と、そこでの何もかもが定まらない流体的な様態に関する基本的な記述は以下のとおり。

 「リキッド・ライフ(流体的・流動的な生活)」とは、リキッド・モダン(流体的・流動的な近代)社会における生のあり方である。「リキッド・モダン」社会とは、そこに生きる人々の行為が、一定の習慣やルーティンへと〔あたかも液体が固体へと〕凝固するより先に、その行為の条件の方が変わってしまうような社会のことである。……リキッド・モダン社会同様、リキッド・ライフは、〔固体ならぬ液体がそうであるように〕長期にわたって、その形状をとどめることも、一定の進路を保つこともできない。

 リキッド・モダン社会では、資産が負債に、能力は障害に、あっという間に変わってしまう。だから、個人的に達成してきた業績を、固体のように、安定した状態にして、いつまでも保持しておくことはできない。人々が自分の行為する状況をきちんと把握する間もないまま、状況が変わってしまい、せっかく立てた戦略も古くさくなってしまう。だから、過去の経験に学んで、以前うまくいった戦略や戦術を採用するのは賢明ではない。その後に起きた、ほとんど予想されていなかった(おそらく予測不能の)急速な状況の変化を、過去の試験は考慮に入れておくことはできないからである。過去の出来事に基づいて、未来のトレンドを予測することは、ますます大きなリスクを抱え込むことであり、誤った方向へ進むことになりかねない。信頼に足る計算はますます困難になるし、誤りのない予測など想像すらできない。(p. 7-8)


 リキッド・ライフには必然的に不安がともなう。不安の絶えない生活のなかで必要とされるスキルもまた独特のものである。

 手短に言えば、リキッド・ライフとは、不安定な生活であり、たえまない不確実性の中で生きることである。このような生活には気苦労が絶えず、強い不安がつきまとう。……リキッド・ライフでは、次々と新しいことが始まる――しかし、終わりがなければ、新たな始まりもない。……リキッド・モダンな生活には、さまざまなコツやスキルが必要だが、その中でも、優先されるのはどう獲得するかよりもどう捨てるかに関するものである。(p. 8-9)


 リキッド・ライフでは、いらなくなったものをうまく捨てる方法、不要になった関係をうまく終わらせる方法こそが、多くの人の関心事となっている。ここで注意しないといけないのは、リキッド・ライフにおいては、人間はものを捨てる主体であると同時に、捨てられる危険性にもさらされているという点である。

 リキッド・モダン社会では、廃棄物処理産業が、リキッド・ライフのやりくりにおいて支配的な位置を占める。この社会が存続し、そこで生きる人々が幸せに暮らせるかどうかは、製品が迅速に廃棄されるか、廃棄物がスピーディに効率よく除去されるかにかかっている。この社会では、使い捨てが普遍的なルールであり、例外措置はない。(p. 10)


 リキッド・モダン社会では、落ち着いて生活することができない。常に近代化していなければならない(すなわち、来る日も来る日も販売期日の過ぎたものを捨て続け、アイデンティティを構築しては解体し、身にまとっては脱ぎ捨てるという作業をし続けねばならない)――さもなくば、破滅である。……いまいる場所を単に維持するためにも、全力で走らなければならない――気を抜いて最後尾になればゴミ箱行きになってしまうのだから。(p. 10-11)


 こうした世界にあって、誰もが同じように生きていけるわけではない。リキッド・モダンの潮流にうまく乗っていける人と、身動きがとれず不確実性のなかに置き去りにされる人の間に、大きな隔たりが生まれる。

 勝つ見込みが非常に強いのは、グローバルな権力ピラミッドの頂上付近を回遊している人々である。こうした人々にとって、……多くの場所がホームグラウンドである一方で、どの場所も特別な意味を持っていないのである。……「確固たる価値観もなく、未来のことなど考えていない、利己主義的で快楽主義的」な社会に、この人たちは生きている。……程度の差はあれ、こうした人々はみな「リキッド・ライフ」の要領をわきまえ、実践している。

 どこまでうまくいくかは別として、こうした人々は、ビル・ゲイツのやり方をビジネスの成功モデルとして懸命に見習っている。……ビル・ゲイツとは「無秩序の中で自身を持って暮らす人間、方向性感覚喪失状態の中でこそ花開く人間」であり、「特定の一つの仕事に埋没して」「麻痺してしまう」よりも、自分を「可能性のネットワークの中に」置くような人間である。こうした人間……は、……「退屈が支配するのを感じ、誰もが自分の仕事、自分の親戚、自分の家、自分の生活に耐えられなくなる」日が来れば、「次の都市へ移り」、そこで「各自が新たな仕事に就き、別の妻をめとり、窓を開けたときに別の風景が現れるのを眺め、それまでとは違った余暇、友人、ゴシップで時を過ごすだろう」。(p. 11-13)


 こんなプレイヤーと対面させられたら、ゲームの残りの参加者、中でも嫌々ゲームに参加している人々、「動いていること」が「大好き」なわけでもなければ、そんなゆとりもないような人々にはほとんど勝ち目がない。こうした人々にとって、ゲームで勝負に出たところで、実際勝てる可能性はない。かといって、ゲームに参加しないという選択肢もない。(p. 13)


 グローバル化した世界における頂点と底辺とを見比べるとき、もっとも目につくのは、かれらに割り当てられている自由の大きさの違いであろう。

 軽さや優雅さというものは、自由とともにある――動く自由、選ぶ自由、それまでの自分を棄てる自由、まだなっていない自分になる自由。このような自由を、新たな地球規模の移動性がもたらす影響を被る側の人たちは持っていない。こういう境遇にある人々にとって、離れていたい人がいても、その相手側の人が離れることを容易に許してくれるとは思えないし、近づきたい人がいても、その相手側の人が自分を寛容に受け入れてくれるとは限らない。……こうした人々はしがらみの中にいる。(p. 14-15)


 出発と(到底たどり着きそうもない)到着の間には、砂漠、空白、荒れ地、深い溝がある。そんなところへ、押し出されもしないのにみずからの意志で飛び込んでいく勇気のある人は、ほとんどいないだろう。……アンジェイ・シャハイは、現代のアイデンティティ・ゲームの勝算が非常に不均等に配分されていることを実に鋭く分析している。かれによれば、所属共同体を離れるという決断は、ほとんどの場合まったく思いつくことすらありえないことである。さらに、……古代ギリシアでは、所属するポリスから追放されることは、究極の刑、事実上の死刑と見なされたことを西洋の疑り深い読者は思い起こさせられる。……しかし、二千年後の現代、何百万人にも上る、不法滞在者、無国籍者、難民、追放された人々、家・パン・水を求める人々にとって、その率直な表現が自分に当てはまるのを認めることはさほど難しいことではなかろう。

 ヒエラルキーの頂点でも底辺でも……、人々はアイデンティティの問題に取り憑かれている。頂点では、いま提供されている多くのものの中からベストのものを選ぶこと、バラバラに売られている組み立てキットを使って、そのパーツを、緩すぎず……、しかし、きつすぎず……、まとめ上げることが問題となる。底辺での問題は、入手可能なアイデンティティが一つでもあれば、それにしっかりしがみつき、侵食してくる力、錯乱させる圧力に抗して戦い、たえず崩れ落ちようとする壁を修復し、塹壕を深く深く掘って、そのアイデンティティがバラバラにならないようにすることである。(p. 15-16)


 物質的には豊かだが精神的には貧しい現代人の多くが、「精神的ルンペン・プロレタリアート」として描かれている。かれらは、現在から少しでも多くの満足を引き出そうと躍起になっている。「永遠」は居場所を失ったが、生活の瞬間化によって、かれらは「無限」を手に入れた。

 「精神的ルンペン・プロレタリアート」の住む世界は現在へと平板化され、その現在がいつまでも続く。その世界は、長生きと満足感という関心に隅々まで覆い尽くされている。(p. 17)


 永遠は、明らかに居場所を失った。けれども、無限はそうではない。現在は、持続するかぎり、いかなる限界をも超えてどこまでも拡がることができるので、かつては時が満ち、定めの時がやってきたときにしか望めなかった多くの経験を現在の中に収容することができる。(p. 17-18)


 重要なのは持続ではなくスピードである。スピードが適切であれば、永遠の世界の全体を、現世的生活の、連続する現在の内部で消費することができる。……その裏技として、永遠の世界を丸ごと、個人の一生涯のサイズに合わせて圧縮するのである。不滅の宇宙と有限の生の間の板挟みはついに解消された。……事実上、永遠の世界が提供しうるものはどんなものも、すべて限られた人生の中で使い尽くすことができる。(p. 18)


 このような状況によって、かつてなかったほど多くの経験を、限りある人生のなかに詰め込んでいくことが可能になる。いってみれば、アイデンティティを繰り返し獲得、廃棄し、再構成することが可能になったのである。そうした作業のために必要な道具は、世の中に溢れかえっている。


 リキッド・ライフとは消費する生活である。世界のあらゆるものは、使われていく過程で有用性を失っていくものとして扱われる。そしてそれは、人間といえども例外ではない。自らの商品価値を示すことが出来ない人間は、消費生活にアクセスすることはできない。消費社会において、消費生活へのアクセスを遮られた人間は、即廃棄の対象となる。リキッド・ライフにおける最大の主要産物は廃棄物である。そして、人間も廃棄部として処理される可能性がある以上、廃棄される恐怖と隣り合わせの生活を送っていかないといけない。リキッドな社会で生活する人間は「欲望の対象にどれほどしっかり集中しても、消費者は、欲望する主体の商品価値を横目で確認せざるをえない。リキッド・ライフは、たえまない自己省察自己批判、自己検証を意味する。自分で自分に満足できない。その不満を糧にリキッド・ライフは展開する」(p. 23)。

 ここでいう批判はもっぱら自己に向けられたものであり、内向きのものである。また、改善の対象になるのも自己である。こうなると、自己の外部にある世界は、自己改革のために利用可能な道具としてしか、価値を認められなくなる。世界に対する関心は失われ、世界をよりよくするために他者と協力して何かをおこなうことなど、誰の目にも理にかなわないことと見なされる。リキッド・ライフにおける根源的な憂鬱は、この点にこそあるといってよい。

 リキッド・モダン社会の台頭は、社会に関するユートピア、もっと一般的に言えば、「善い社会」という観念の終焉を告げる。(p. 24)


 このトレンドは自分で燃料補給し、みずから活力を得ている。……他方、共同生活には無関心で、かろうじて自己改革の標的になるのを免れている部分があっても注意も払われない。この傾向もとどまることなく進んでいく。共同生活の状況を軽視することによって、個人的な生活を液状化させるような環境設定について改めて交渉する可能性はあらかじめ排除されている。幸せを追い求めることは、疑う余地のない目的であり、個人の生活は何よりも、それに動機づけられている。しかし、それを追求するまさにそのやり方……によって成功が妨げられている。結果的に不幸が生じる。その不幸が、また自己中心的なライフ・ポリティクスにかかずらう理由と活力を加えることになる。こうして結局、液状化した生活がいつまでも続くことになる。リキッド・モダン社会とリキッド・ライフは、正真正銘の永久運動に組み込まれている。(p. 24-25)


 永久運動は自分では止まらない。間違いを正したり、望ましくない結果を避けるためにおこなわれる定番のやり方は、教育あるいは再教育である。生活者にとって圧力を生じさせる社会環境を批判し、それに立ち向かうことができるように、学習者を導いていけるような教育者が必要だ。そんな教育者がいるかどうかは定かではないし、いたとしても、かれらは非常に不利な状況のなかで、活路を見出していかないといけない。たとえそうでも、社会的事実の圧力をはねのけるためのチャンスは、教育によってしか実現しない。

 圧倒的に、勝ち目は薄いかもしれない。それでも、民主的な……社会にとって、それにふさわしいように情勢を変化させる手段として、教育や自己教育に取って代わるものはない。他方で、民主的な社会はその性質を、「批判的教育」……なしに長らく維持することができない。自由の運命。自由を可能にし、自由によって可能になる民主主義の運命。これまで達成された水準の自由や民主主義では不十分だという思いを育む教育の運命。この三つの運命は分かちがたく結びついていて、互いに分離されるべきものではない。(p. 29)