リキッド・ライフ: 個人

 個性的であろうとすることはアポリアである。現代社会では、誰もが個性的であろうとするよう枷をはめられている。個性的であることを拒否することに対して、社会は寛容な態度を示してはくれない。

 個人志向社会では、誰もが個性的でなければならない。少なくともこの点に関しては、この社会のメンバーは、まったく没個性的であり、他の人と違うところもなければ独特でもない。むしろ逆に、お互いは驚くほどよく似ている。(p. 32-33)


 逆説的なことだが、「個性」とは「群衆精神」の問題であり、群衆からの強制的要求である。個性的であろうとすることは、群衆の中で他の人と同じように振る舞おう、事実上、みんなと同じであろうとすることを意味する。個性を持つことが「普遍的な義務」であり、誰もが直面する困難であるような、こういう状況下で、他人とは違う本当に個性的な人間になるために唯一できることは――混乱してくらくらしてくるかもしれないが――個性的にならないよう努めることであろう。もし、そんな芸当をこなすことができればだが……。また、もし、その芸当の(明らかに面白くない)結果を甘受し、それと向き合うことができればの話であるが……。(p. 33)


 現代社会では、ほとんどの人がこうした問題を抱えている。問題を解決するためには、外的圧力に侵食されていない、「本当の自己」を見つけ出す必要がある。しかし、これが「本当の自分」だと、自信をもっていうことができる人がどれだけいるだろう。そのことを確認するために、誰かの助けが必要になる。実際、いまの社会にはそうした助けを買って出るような人は、たくさんいる。ただ、このような支援者の世話になることで、問題が解決するかというと、そうではないことも多い。それどころか、かえって悩みが大きくなることすらある。

 たいていの場合、自己発見の旅は、グローバルな見本市を巡っていく。そこでは、「これよりもいいものは見つからないでしょう」と、個性的になるためのレシピが大量に売り出されていて、ショーケースに展示されている自我の組み立てキットはどれも、最新流行のデザインに沿って工場で大量に生産されているものである。……次第に、状況が見え、腹立たしくなってくる。自分にある本当に個性的で、他の人はなかなか持っていない特徴は、みんなが持っている、ありふれたものになるまで価値が認められないし、その価値が認められたときには、非常に広く流通してしまっているのである。

 つまり、個性というものが、自分を解放して自己を主張しようとすることであるなら、それは、はじめからアポリア、つまり解決不能の矛盾を背負わされてしまっているのである。個性的であるには社会が必要である。個性は社会の中で育まれ、社会に向けて示さなければならない。これは、個性的たろうとする人間の陶酔を覚ましてしまうような、憂鬱な真理である。しかし、この真理を忘れ、ないがしろにしたり、見くびったりするならば、確実に多くの挫折に見舞われる。(p. 36-37)


 個人的に取り組むことでは、事実上、達成不可能な課題が、まさに個人の仕事として強調されている。「自律的であること」、「自己の行為に責任をもつこと」、「自己改善に勤しむこと」、これらすべてを個人的におこなうことは、現代人にとって権利であると同時に義務にもなっている。

 個人であるという課題は、社会転換の果てに現れたのに、パーソナルな発見という見せかけを取っている。……個人であることの意義が高まったのは、生活上の営み全体をしっかりと包み込んでいた緊密な社会的な結びつきが――崩れ落ちたか、引き裂かれたかして――どんどん弱まっていったことを示唆している。共同体が、そのメンバーの生活を規範的に統制しようとする力や関心を(あるいは力も感心も)失ったのである。……こうした力を失ってしまったために、「人間の行為にどう型をはめ、どう調整したらいいのか」という問題が露わになってしまった。つまり、それは選択や決定の対象、つまり意図的な努力の対象として、思いめぐらし、気にかけなければならない事柄となったのである。(p. 40-41)


 人生の指針を定めることや自己形成は、かつてであれば共同体の流れに身を委ねることで、あるていど達成することができた。共同体が失われ、「個人」という考えがあらわれるようになると、自分で自分を築き上げる必要性が、人間の権利として主張されるようになった。共同体に代わって新しく生まれた社会的権力は、ミクロな空間でおこなわれる対面的な人間関係の領域を、関心の埒外においている。ミクロな空間では、どんな手段でも道具でも、自分にとって都合がよいように、自由に使ってもよい。しかし、この「自由」を額面通りに受け取ることは可能だろうか。

 対面的な状況ではたえまなくやりとりがなされ、その中で個性が主張され、そして日々調整し直される。「個人」であるとは、やりとりの中で起こることやその結果について、他人のせいにしないで責任を引き受けることである。しかし、こういう責任についてまじめに考えられるようになるためには、行為者が物事を進めるやり方を自由に選ぶ権利を持っていると想定されなければならない。「自由な選択」はフィクションかもしれない……。しかし、……フィクションといえども、……その圧力は「リアル」なものだから、……消えたりしないし、ましてや、うまいこと出し抜いてやろうとか、無視してやり過ごそうなどとすれば、ただでは済まされない。……個人志向社会においては、わたしたちはみな、一人ひとりが権利の上では個人である。……有無を言わせぬ形で圧しかかってくる「社会的事実」の力により、われわれはみな個人なのである。

 自由に選択する権利と義務があることが個性の前提である。それは暗黙の前提であったり、はっきり認められた前提であったりもするが、いずれにしても、その前提だけで、自由に選択する権利がしっかり行使されることまで十分に保証されるわけではない。……自由な選択は、多くの男女にとって事実上、ほとんど常に手の届かないところにある。(p. 42-43)


 個性的であろうとして奮闘する個人のために社会が用意する対応策は「消費主義」である。自分らしくあろうとする個人のために、それにふさわしい商品が提供される一方で、そうした商品は瞬く間に老朽化していく。また新しい商品があらわれる。「流行中」と「時代遅れ」のズレこそが「独自性」を測定するものさしになる。しかし、このような方法でつかの間の独自性を獲得することができるのも、それに必要な資源をもつ個人だけである。

 「権利上の個人」の岸辺から「事実上の個人」の岸辺へと至るフェリーの運賃は高額で、「事実上の個人」の岸辺でキャンプを張るには、もっと金がかかる。……個人化レースには参加制限がある。参加資格のある人々も、その競争によって二極化していく。(p. 48-49)


 問題はこれだけではない。二極化の趨勢はグローバルな規模で進行する。北米や西側に住む人々と、地球のそれ以外の地域に住む人々との生活格差は非常に大きい。さらに、地球に住むすべての人間の生活を同水準にまで押し上げることは、地球の容量をはるかに超えている。「個人であるということは、相当の期間、特権であり続けるだろう」(p. 51)。

 特権は二つの水準に見られる。まず擬似的に自律した一個の社会の中では、「解放され」成熟した消費者たちが、特徴なき大衆からの分離独立という主張を……掲げている。他方、特徴なき大衆の方には選択の余地などない。……「重層的に決定された」アイデンティティに「固定され」「身動きがとれなくなっている」。地球規模での特権に関して言えば、……飛び地の内部では、かつて権利と義務で緻密に編み込まれ解きようのなかったはずの絆に代わって急速にネットワークが形成されている。……他方、その飛び地の外に拡がっている広大な地帯で、個人という考えが持ち上がることは、移動と選択の自由の前兆であるというよりは、習慣的に張られていたセキュリティ・ネットの消滅を予感させる。(p. 51-52)


 グローバル化した時代において、知識階級は自らのアイデンティティの構築・再構築が容易になったことに喜びを見出している。このようなアイデンティティの創作作業を「異種交配」と、それを実践する人を「文化的混種」と呼ぶ傾向が見られる。

 一見、異種交配とは、混ぜ合わせることのようであるが、おそらくその見かけの背後に潜んでいる決定的な働きは、分離である。異種交配によって生まれた混種は、一卵性の血筋のどんな系譜からもすべて切り離される。……「異種交配」とは自律宣言、いやむしろ独立宣言である。(p. 55-56)


 異種交配によって生み出された混種文化は、他のどんな系統、親族集団からも、口出しされることがない。取り残された「他の人たち」から自分たちを切り離し、治外法権を獲得している。そのような本質を、「混ぜ合わせる」というイメージによって覆い隠しているという意味で、異種交配はイデオロギーだといえる。

 領土にかかわりなく往来するネットワークやグローバル・エリートが「どこでもない場所 nowherevilles」に棲息するように、「混種文化」のアイデンティティは、どこにも属さないことにある。自分より劣る「ローカルな」人々は、移動や選択の範囲を境界に制限されている。しかし、自分はその境界を公然と無視できるだけの自由を持っている。それが、「混種文化」のアイデンティティである。(p. 56)


 アイデンティティという考えは、いつでも、ふたつの力によって引き裂かれている。すなわち、集合性からの個人の解放か、個人の独自性を圧倒する集合性への所属か、である。一方では自由の獲得が、他方では安全性の確保が問題になっている。アイデンティティを組み立てるために、かつて準拠することができた枠組みは、もはやそのために役立てられるほど長期にわたって形状を維持することができなくなっている。また、他を差し置いて人々の支持を集めることができるような権威をもった枠組みも、もはや存在しない。

 アイデンティティの設定は結局、各自の問題になる。「異種交配」は、このような状況のなかから生まれたアイデンティティ形成のやり方のひとつである。それは、どこにも属さないことによって、他のどんなものとも違うことによって、いつまでも「確定できない」ことによって、特徴づけられるアイデンティティである。異種交配という形式での「不確定性」の実践は、確かに自由のあらわれであるかもしれないが、「追って通知のあるまで」のアイデンティティという不安定状態は、自由というよりむしろ、「勝利で終わることのない解放戦争に強制的に徴兵され、いつまでもその状態に置かれている」(p. 62)といった表現のほうが合っているように思える。


 不確実性の時代のなかにも、普遍的なアイデンティティがひとつだけある。それは、「選び続ける」というアイデンティティである。

 たえまない変化の中から確実に出現する「アイデンティティの核」が一つだけある。それも無傷であるばかりか、強化されて出現する。その「アイデンティティの核」とはホモ・エリゲンス、すなわち「選んでいる人」である。(p. 63)


 ホモ・エリゲンスは、アイデンティティを作り上げるための道具を手に入れる先として、商品市場に依存しているが、商品市場のほうも、ホモ・エリゲンスなしに生き延びることはできない。もし、顧客がある商品に完全に満足してしまい、自分の地位に到達点を見出し、それ以上の選択を終わらせてしまったら、それは商品市場にとって致命的なことである。そうならないために、商品市場は、古い欲望を鎮火しておくことに余念がない。


 アイデンティティ言説は、自由と安全という、ふたつの価値の探求に集約されている。どちらも幸福な生活を送るうえで不可欠のものであるが、これらふたつを両立させることが難しいということも、よく知られている。しかし実際は、安全のない自由が不十分であるように、自由のない安全もまた不十分である。確かに片方の増大は、もう片方の減少を意味するかもしれない。どちらをより重視するのかに関して、ある時点で支配的な見方というものがあるかもしれないが、問題は、そうした見方自体が自由に選択された結果かどうか、という点である。この選択の自由が行使される場合に限り、自由と安全・安心のバランスの変化が受け入れられる可能性が高くなる。

 もし、自由の増大が視野を切り開いたとしても、それが不自由から生じた結果であるとすれば――つまり何の事情も聞かれずに、押しつけられたり、画策されたのであれば――自由の増大は公正なものとはみなされにくいだろう。(p. 69)


 アイデンティティに関する言説は、とりわけ、自由と安全のどちらに重み付けをしてアイデンティティを語っているのかという点に関しては、人々の置かれている状況によって大きく異なる。アイデンティティという同じ言葉を用いながらも、それに込める意味合いは多様なので、話が噛み合わないのも無理はない。アイデンティティをめぐる言説がある人にとっては薬になるが、別の人にとっては毒になるのはこのためである。

 グローバル化の圧力に屈していくことを、個人の自律だとか自己主張の自由だとか言いたてる傾向が見られる。しかし、グローバル化の犠牲者やその巻き添えになる人は、さらなる自由が、自分の抱えている問題を改善してくれるとは考えまい。かつては、お互いを思いやる気持ちのつながりや人間としての絆、そして当たり前のように繰り返される暮らしに支えられて、安心・安全を感じていたこうした人々にとって、自分の困難の原因は、むしろ、そうしたつながりや暮らしが崩壊し、力ずくで撤去されたことにあると考えるだろう。(p. 71)

リキッド・ライフ――現代における生の諸相

リキッド・ライフ―現代における生の諸相

リキッド・ライフ―現代における生の諸相

 バウマン三冊目。本書も基本的には『リキッド・モダニティ』で提示された近代観を手がかりとして、現代を生きる人間の生活様式の不安定性が論じられている。

 『リキッド・モダニティ』や『コミュニティ』同様、グローバル時代を生きるエリートとローカルとの対比が随所に描かれているが、前二書以上にグローバル・エリートに対する批判が鮮明で、マルクス主義の影響も色濃いように感じた。興味をひかれた箇所をまとめていこうと思う。

序論

 リキッド・モダニティと密接に結びついたリキッド・ライフの性質と、そこでの何もかもが定まらない流体的な様態に関する基本的な記述は以下のとおり。

 「リキッド・ライフ(流体的・流動的な生活)」とは、リキッド・モダン(流体的・流動的な近代)社会における生のあり方である。「リキッド・モダン」社会とは、そこに生きる人々の行為が、一定の習慣やルーティンへと〔あたかも液体が固体へと〕凝固するより先に、その行為の条件の方が変わってしまうような社会のことである。……リキッド・モダン社会同様、リキッド・ライフは、〔固体ならぬ液体がそうであるように〕長期にわたって、その形状をとどめることも、一定の進路を保つこともできない。

 リキッド・モダン社会では、資産が負債に、能力は障害に、あっという間に変わってしまう。だから、個人的に達成してきた業績を、固体のように、安定した状態にして、いつまでも保持しておくことはできない。人々が自分の行為する状況をきちんと把握する間もないまま、状況が変わってしまい、せっかく立てた戦略も古くさくなってしまう。だから、過去の経験に学んで、以前うまくいった戦略や戦術を採用するのは賢明ではない。その後に起きた、ほとんど予想されていなかった(おそらく予測不能の)急速な状況の変化を、過去の試験は考慮に入れておくことはできないからである。過去の出来事に基づいて、未来のトレンドを予測することは、ますます大きなリスクを抱え込むことであり、誤った方向へ進むことになりかねない。信頼に足る計算はますます困難になるし、誤りのない予測など想像すらできない。(p. 7-8)


 リキッド・ライフには必然的に不安がともなう。不安の絶えない生活のなかで必要とされるスキルもまた独特のものである。

 手短に言えば、リキッド・ライフとは、不安定な生活であり、たえまない不確実性の中で生きることである。このような生活には気苦労が絶えず、強い不安がつきまとう。……リキッド・ライフでは、次々と新しいことが始まる――しかし、終わりがなければ、新たな始まりもない。……リキッド・モダンな生活には、さまざまなコツやスキルが必要だが、その中でも、優先されるのはどう獲得するかよりもどう捨てるかに関するものである。(p. 8-9)


 リキッド・ライフでは、いらなくなったものをうまく捨てる方法、不要になった関係をうまく終わらせる方法こそが、多くの人の関心事となっている。ここで注意しないといけないのは、リキッド・ライフにおいては、人間はものを捨てる主体であると同時に、捨てられる危険性にもさらされているという点である。

 リキッド・モダン社会では、廃棄物処理産業が、リキッド・ライフのやりくりにおいて支配的な位置を占める。この社会が存続し、そこで生きる人々が幸せに暮らせるかどうかは、製品が迅速に廃棄されるか、廃棄物がスピーディに効率よく除去されるかにかかっている。この社会では、使い捨てが普遍的なルールであり、例外措置はない。(p. 10)


 リキッド・モダン社会では、落ち着いて生活することができない。常に近代化していなければならない(すなわち、来る日も来る日も販売期日の過ぎたものを捨て続け、アイデンティティを構築しては解体し、身にまとっては脱ぎ捨てるという作業をし続けねばならない)――さもなくば、破滅である。……いまいる場所を単に維持するためにも、全力で走らなければならない――気を抜いて最後尾になればゴミ箱行きになってしまうのだから。(p. 10-11)


 こうした世界にあって、誰もが同じように生きていけるわけではない。リキッド・モダンの潮流にうまく乗っていける人と、身動きがとれず不確実性のなかに置き去りにされる人の間に、大きな隔たりが生まれる。

 勝つ見込みが非常に強いのは、グローバルな権力ピラミッドの頂上付近を回遊している人々である。こうした人々にとって、……多くの場所がホームグラウンドである一方で、どの場所も特別な意味を持っていないのである。……「確固たる価値観もなく、未来のことなど考えていない、利己主義的で快楽主義的」な社会に、この人たちは生きている。……程度の差はあれ、こうした人々はみな「リキッド・ライフ」の要領をわきまえ、実践している。

 どこまでうまくいくかは別として、こうした人々は、ビル・ゲイツのやり方をビジネスの成功モデルとして懸命に見習っている。……ビル・ゲイツとは「無秩序の中で自身を持って暮らす人間、方向性感覚喪失状態の中でこそ花開く人間」であり、「特定の一つの仕事に埋没して」「麻痺してしまう」よりも、自分を「可能性のネットワークの中に」置くような人間である。こうした人間……は、……「退屈が支配するのを感じ、誰もが自分の仕事、自分の親戚、自分の家、自分の生活に耐えられなくなる」日が来れば、「次の都市へ移り」、そこで「各自が新たな仕事に就き、別の妻をめとり、窓を開けたときに別の風景が現れるのを眺め、それまでとは違った余暇、友人、ゴシップで時を過ごすだろう」。(p. 11-13)


 こんなプレイヤーと対面させられたら、ゲームの残りの参加者、中でも嫌々ゲームに参加している人々、「動いていること」が「大好き」なわけでもなければ、そんなゆとりもないような人々にはほとんど勝ち目がない。こうした人々にとって、ゲームで勝負に出たところで、実際勝てる可能性はない。かといって、ゲームに参加しないという選択肢もない。(p. 13)


 グローバル化した世界における頂点と底辺とを見比べるとき、もっとも目につくのは、かれらに割り当てられている自由の大きさの違いであろう。

 軽さや優雅さというものは、自由とともにある――動く自由、選ぶ自由、それまでの自分を棄てる自由、まだなっていない自分になる自由。このような自由を、新たな地球規模の移動性がもたらす影響を被る側の人たちは持っていない。こういう境遇にある人々にとって、離れていたい人がいても、その相手側の人が離れることを容易に許してくれるとは思えないし、近づきたい人がいても、その相手側の人が自分を寛容に受け入れてくれるとは限らない。……こうした人々はしがらみの中にいる。(p. 14-15)


 出発と(到底たどり着きそうもない)到着の間には、砂漠、空白、荒れ地、深い溝がある。そんなところへ、押し出されもしないのにみずからの意志で飛び込んでいく勇気のある人は、ほとんどいないだろう。……アンジェイ・シャハイは、現代のアイデンティティ・ゲームの勝算が非常に不均等に配分されていることを実に鋭く分析している。かれによれば、所属共同体を離れるという決断は、ほとんどの場合まったく思いつくことすらありえないことである。さらに、……古代ギリシアでは、所属するポリスから追放されることは、究極の刑、事実上の死刑と見なされたことを西洋の疑り深い読者は思い起こさせられる。……しかし、二千年後の現代、何百万人にも上る、不法滞在者、無国籍者、難民、追放された人々、家・パン・水を求める人々にとって、その率直な表現が自分に当てはまるのを認めることはさほど難しいことではなかろう。

 ヒエラルキーの頂点でも底辺でも……、人々はアイデンティティの問題に取り憑かれている。頂点では、いま提供されている多くのものの中からベストのものを選ぶこと、バラバラに売られている組み立てキットを使って、そのパーツを、緩すぎず……、しかし、きつすぎず……、まとめ上げることが問題となる。底辺での問題は、入手可能なアイデンティティが一つでもあれば、それにしっかりしがみつき、侵食してくる力、錯乱させる圧力に抗して戦い、たえず崩れ落ちようとする壁を修復し、塹壕を深く深く掘って、そのアイデンティティがバラバラにならないようにすることである。(p. 15-16)


 物質的には豊かだが精神的には貧しい現代人の多くが、「精神的ルンペン・プロレタリアート」として描かれている。かれらは、現在から少しでも多くの満足を引き出そうと躍起になっている。「永遠」は居場所を失ったが、生活の瞬間化によって、かれらは「無限」を手に入れた。

 「精神的ルンペン・プロレタリアート」の住む世界は現在へと平板化され、その現在がいつまでも続く。その世界は、長生きと満足感という関心に隅々まで覆い尽くされている。(p. 17)


 永遠は、明らかに居場所を失った。けれども、無限はそうではない。現在は、持続するかぎり、いかなる限界をも超えてどこまでも拡がることができるので、かつては時が満ち、定めの時がやってきたときにしか望めなかった多くの経験を現在の中に収容することができる。(p. 17-18)


 重要なのは持続ではなくスピードである。スピードが適切であれば、永遠の世界の全体を、現世的生活の、連続する現在の内部で消費することができる。……その裏技として、永遠の世界を丸ごと、個人の一生涯のサイズに合わせて圧縮するのである。不滅の宇宙と有限の生の間の板挟みはついに解消された。……事実上、永遠の世界が提供しうるものはどんなものも、すべて限られた人生の中で使い尽くすことができる。(p. 18)


 このような状況によって、かつてなかったほど多くの経験を、限りある人生のなかに詰め込んでいくことが可能になる。いってみれば、アイデンティティを繰り返し獲得、廃棄し、再構成することが可能になったのである。そうした作業のために必要な道具は、世の中に溢れかえっている。


 リキッド・ライフとは消費する生活である。世界のあらゆるものは、使われていく過程で有用性を失っていくものとして扱われる。そしてそれは、人間といえども例外ではない。自らの商品価値を示すことが出来ない人間は、消費生活にアクセスすることはできない。消費社会において、消費生活へのアクセスを遮られた人間は、即廃棄の対象となる。リキッド・ライフにおける最大の主要産物は廃棄物である。そして、人間も廃棄部として処理される可能性がある以上、廃棄される恐怖と隣り合わせの生活を送っていかないといけない。リキッドな社会で生活する人間は「欲望の対象にどれほどしっかり集中しても、消費者は、欲望する主体の商品価値を横目で確認せざるをえない。リキッド・ライフは、たえまない自己省察自己批判、自己検証を意味する。自分で自分に満足できない。その不満を糧にリキッド・ライフは展開する」(p. 23)。

 ここでいう批判はもっぱら自己に向けられたものであり、内向きのものである。また、改善の対象になるのも自己である。こうなると、自己の外部にある世界は、自己改革のために利用可能な道具としてしか、価値を認められなくなる。世界に対する関心は失われ、世界をよりよくするために他者と協力して何かをおこなうことなど、誰の目にも理にかなわないことと見なされる。リキッド・ライフにおける根源的な憂鬱は、この点にこそあるといってよい。

 リキッド・モダン社会の台頭は、社会に関するユートピア、もっと一般的に言えば、「善い社会」という観念の終焉を告げる。(p. 24)


 このトレンドは自分で燃料補給し、みずから活力を得ている。……他方、共同生活には無関心で、かろうじて自己改革の標的になるのを免れている部分があっても注意も払われない。この傾向もとどまることなく進んでいく。共同生活の状況を軽視することによって、個人的な生活を液状化させるような環境設定について改めて交渉する可能性はあらかじめ排除されている。幸せを追い求めることは、疑う余地のない目的であり、個人の生活は何よりも、それに動機づけられている。しかし、それを追求するまさにそのやり方……によって成功が妨げられている。結果的に不幸が生じる。その不幸が、また自己中心的なライフ・ポリティクスにかかずらう理由と活力を加えることになる。こうして結局、液状化した生活がいつまでも続くことになる。リキッド・モダン社会とリキッド・ライフは、正真正銘の永久運動に組み込まれている。(p. 24-25)


 永久運動は自分では止まらない。間違いを正したり、望ましくない結果を避けるためにおこなわれる定番のやり方は、教育あるいは再教育である。生活者にとって圧力を生じさせる社会環境を批判し、それに立ち向かうことができるように、学習者を導いていけるような教育者が必要だ。そんな教育者がいるかどうかは定かではないし、いたとしても、かれらは非常に不利な状況のなかで、活路を見出していかないといけない。たとえそうでも、社会的事実の圧力をはねのけるためのチャンスは、教育によってしか実現しない。

 圧倒的に、勝ち目は薄いかもしれない。それでも、民主的な……社会にとって、それにふさわしいように情勢を変化させる手段として、教育や自己教育に取って代わるものはない。他方で、民主的な社会はその性質を、「批判的教育」……なしに長らく維持することができない。自由の運命。自由を可能にし、自由によって可能になる民主主義の運命。これまで達成された水準の自由や民主主義では不十分だという思いを育む教育の運命。この三つの運命は分かちがたく結びついていて、互いに分離されるべきものではない。(p. 29)

分散・共分散の展開

 大学院ゼミの宿題。Jencks and Tach(2006)の43頁にある式の証明。

(1) {\rm Var}(\ln Y)={\rm Var}(\ln V)+{\rm Var}(\ln G)+2{\rm Crov}(\ln V,\ln G)


(2) {\rm Cov}(\ln Y{p},\ln Y_{c})={\rm Cov}(\ln V_{p},\ln V_{c})+{\rm Cov}(\ln V_{p},\ln G_{c})
                    +{\rm Cov}(\ln V_{c},\ln G_{p})+{\rm Cov}(\ln G_{p},\ln G_{c})


 \ln Y_{i}=\ln V_{i}+\ln G_{i}
とする。
 {\rm Var}(\ln Y_{i})=\frac{\sum(\ln Y_{i}-\ln \bar{Y})^2}{N}
 {\rm Var}(\ln Y_{i})=\frac{\sum\{(\ln V_{i}+\ln G_{i})-(\ln \bar{V}+\ln \bar{G})\}^2}{N}
 {\rm Var}(\ln Y_{i})=\frac{\sum\{(\ln V_{i}-\ln \bar{V})+(\ln G_{i}-\ln \bar{G})\}^2}{N}
 {\rm Var}(\ln Y_{i})=\frac{\sum\{(\ln V_{i}-\ln \bar{V})^2+2(\ln V_{i}-\ln \bar{V})(\ln G_{i}-\ln \bar{G})+(\ln G_{i}-\ln \bar{G})^2\}}{N}
 {\rm Var}(\ln Y_{i})=\frac{\sum(\ln V_{i}-\ln \bar{V})^2}{N}+\frac{\sum(\ln G_{i}-\ln \bar{G})^2}{N}+2\frac{\sum(\ln V_{i}-\ln \bar{V})(\ln G_{i}-\ln \bar{G})}{N}
 {\rm Var}(\ln Y_{i})={\rm Var}(\ln V_{i})+{\rm Var}(\ln G_{i})+2{\rm Cov}(\ln V_{i},\ln G_{i})
 以上、式(1)の証明終わり。

 {\rm Cov}(\ln Y{p},\ln Y_{c})=\frac{\sum(\ln Y{p}-\ln \bar{Y}{p})(\ln Y{c}-\ln \bar{Y}{c})}{N}
 {\rm Cov}(\ln Y{p},\ln Y_{c})=\frac{\sum\{(\ln V_{p}+\ln G_{p})-(\ln \bar{V}_{p}+\ln \bar{G}_{p})\}\{(\ln V_{c}+\ln G_{c})-(\ln \bar{V}_{c}+\ln \bar{G}_{c})\}}{N}
 {\rm Cov}(\ln Y{p},\ln Y_{c})=\frac{\sum\{(\ln V_{p}-\ln \bar{V}_{p})+(\ln G_{p}-\ln \bar{G}_{p})\}\{(\ln V_{c}-\ln \bar{V}_{c})+(\ln G_{c}-\ln \bar{G}_{c})\}}{N}
 {\rm Cov}(\ln Y{p},\ln Y_{c})=\frac{\sum\{(\ln V_{p}-\ln \bar{V}_{p})(\ln V_{c}-\ln \bar{V}_{c})+(\ln V_{p}-\ln \bar{V}_{p})(\ln G_{c}-\ln \bar{G}_{c})\}}{N}
                +\frac{\sum\{(\ln G_{p}-\ln \bar{G}_{p})(\ln V_{c}-\ln \bar{V}_{c})+(\ln G_{p}-\ln \bar{G}_{p})(\ln G_{c}-\ln \bar{G}_{c})\}}{N}
 {\rm Cov}(\ln Y{p},\ln Y_{c})=\frac{\sum\{(\ln V_{p}-\ln \bar{V}_{p})(\ln V_{c}-\ln \bar{V}_{c})}{N}+\frac{\sum(\ln V_{p}-\ln \bar{V}_{p})(\ln G_{c}-\ln \bar{G}_{c})}{N}
                +\frac{\sum(\ln V_{c}-\ln \bar{V}_{c})(\ln G_{p}-\ln \bar{G}_{p})}{N}+\frac{\sum(\ln G_{p}-\ln \bar{G}_{p})(\ln G_{c}-\ln \bar{G}_{c})}{N}
 {\rm Cov}(\ln Y{p},\ln Y_{c})={\rm Cov}(\ln V_{p},\ln V_{c})+{\rm Cov}(\ln V_{p},\ln G_{c})
                  +{\rm Cov}(\ln V_{c},\ln G_{p})+{\rm Cov}(\ln G_{p},\ln G_{c})
 以上、式(2)の証明終わり。

LATEX数式環境

 久しぶりに\TeXで数式を書いたので、書き方を思い出すのに時間がかかった。

 EOp1:~Circumstances=\{C1\}.~Effort=\{C2,~C3,~C4,~P^S\}.
 EOp2:~Circumstances=\{C1,~C2\}.~Effort=\{C3,~C4,~P^S\}.
 EOp3:~Circumstances=\{C1,~C2,~C3\}.~Effort=\{C4,~P^S\}.
 EOp4:~Circumstances=\{C1,~C2,~C3,~C4\}.~Effort=\{P^S\}.

 Dardanoni et al.(2006: 61-62)より。この程度の論理式なら環境を使う必要もなく書けるけど、練習なので。

アナログ時計

 乾電池を買い、数ヶ月間停止していた目覚まし時計を起動させる。アラーム機能に不調をきたしていたので、電池を交換しても目覚ましの役には立たないと思って放置していたが、時刻を確認するためにいちいち携帯電話を探すのはわずらわしいし、視線の移動だけでいま何時かがわかる置時計はやはり必要だと思って、電池を入れ換えることにした。

 動かしてみると、しっくりくるというか、どことなく心地よい。生活リズムもよくなる気がする。しかも、アラームも問題なく機能した。

ローマー論文

Dardanoni, Valentino, Gary S. Fields, John E. Roemer 
and Maria Laura Sánchez Puerta, 2006, 
"How Demanding Should Equality of Opportunity Be, and How Much Have We Achieved?," 
Stephen L. Morgan, David B. Grusky, Gary S. Fields eds. 
Mobility and Inequality: Frontiers of Research in Sociology and Economics, 
Stanford, Calif.: Stanford University Press, 59-82.

 読みはじめる。論理式が多いけど、数学的にはそれほど難しくはなさそうだ。環境/努力の条件を厳しくしたり緩くしたりして、異なる環境(能力や選好でグルーピング)におかれた個人のあいだで、結果変数の値が等しいかどうかをテストしている。こういうモデルの検証は日本のデータでも可能なのだろうか。