アメリカのデモクラシー 第一巻(上)

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

 序文によると、本書が書かれたとき、アメリカとヨーロッパは「平等化」と「民主化」という社会の大きな流れのなかにあった。平等やデモクラシーは手放しに賞賛できるものではなく、そこから有益な何かを引き出すことは簡単ではない。このような社会変化が人類にとって何をもたらすのか、これを明らかにするために、トクヴィルはデモクラシーの「成功例」であるアメリカの政治制度を研究した。


 トクヴィルにとって社会の平等化とは、世襲による土地所有から、さまざまな勢力が混ざり合い、権力が分散した状態への、社会の変化を意味する。このような変化のなかで、家柄は次第に権威を失っていき、代わりに法律や金銭、知識が力をもつようになる。新たな力をえた従来の「被支配層」が、政治の世界に進出していく。(『アメリカのデモクラシー』が書かれた時点から見て)過去700年の間に起こったあらゆることは、社会の平等化をうながすものであった。

 11世紀から始めて、以後50年ごとにフランスで起こった出来事を調べてみるならば、どの時期の終わりにも社会状態に二重革命が進行しているのを認めざるをえないであろう。社会の階梯を貴族はますます低下し、平民はいっそう上昇する。……半世紀ごとに両者の距離は縮まり、相接するのはもう間近い。(p. 13-14)


 諸国民の生に起こった種々の偶発事は、どこでもデモクラシーの益に帰した。すべての人がこれに尽力した。デモクラシーの勝利のために力を尽くそうと考えていた人も、それに身を捧げようとは思ってもみなかった人も。(p. 14)


 これほど根の深い社会の運動を一世代の努力で阻止しうると思うのは賢いことであろうか。封建制を破壊し、王を妥当したデモクラシーがかくも強力になり、その敵対者は弱体化したいま、その歩みが止まるだろうか。(p. 14)


 このような流れに逆らうのが賢明でない以上、人間は新しい社会状態に適応していかないといけない。理想的な民主社会における人々の振る舞いについて、トクヴィルは以下のように想いを馳せている。

 誰もが法を自分たちのつくったものと見て愛し、これに服するのを少しも苦痛としない。政府の権威は必要なものとして尊敬されるが、神聖視はされず、国家の首長に向けられる敬愛は熱烈な情熱ではないが、理にかなった穏やかな感情となる。誰もが権利を有し、その維持を保障されているので、すべての階級に男らしい信頼関係が生じ、高慢とも卑屈とも遠いあらゆる種の謙譲の精神をもって相対するようになる。

 民衆は自己の真の利益を知って、社会の恩恵に浴するためには義務をも負わねばならぬことを理解するであろう。このとき、貴族個々の力に代わって市民の自由な結社が現れ、国家は圧制と放縦から保護されよう。

 このように構成された民主的国家において、社会が固定的なものだとは思わない。しかし、社会の変動には節度があり、漸進的なものとなろう。貴族制の社会におけるほど華美はなくとも、貧困は少ないであろう。享楽の度が過ぎることはないが、生活のゆとりはあまねく広がる。学識は低下しても、無知文盲ははるかに稀になろう。精気には欠けても、修正は穏やかになろう。道徳に欠陥は目立っても、犯罪は減るであろう。

 熱狂と熱烈な信仰には欠けるが、それに代わる知識と経験が時として市民を偉大な献身に駆り立てるであろう。一人ではみな無力なので、誰もがひとしく仲間なしではいられないと感じるであろう。そして、自分が仲間に協力しなければ、その援けを得られないのは明らかだから、個人の利益が全体の利益に結びつくことはたやすく分かろう。

 国民全体としては輝きと栄光に欠け、おそらく強力でもないであろう。だが、市民の多数は一層の繁栄に恵まれ、民衆は平穏に暮らすであろう。よりよい生活はありえないと絶望しているのではなく、現に恵まれていることが分かっているからである。

 このような秩序の中ですべてがよく、役に立つというわけではないにしても、少なくとも社会は秩序がもたらす有益でよきものをすべて備えることとなり、人々は、貴族制が提供しうる社会的便益をいっさい絶たれたとはいえ、デモクラシーから引き出しうるすべての利益を手にするであろう。(p. 19-21)


 しかし、フランスに(そしておそらく他のヨーロッパの国々に)デモクラシーがもたらした実際の帰結は上記のようなものではなかった。貴族制や王政に付随する伝統的な権威には、社会の秩序を維持するという側面があった。そのような権威を放棄しながら、デモクラシーがもつ利点をじゅうぶんに引き出すことはできていない。自己の弱点や欠陥を意識しながらも、それらを克服していこうとする勇気をもたない社会は、不気味な静けさのなかにあった。

 われわれの居場所はどこにあるのか。宗教を信じる者は自由と闘い、自由の友は宗教を攻撃する。高貴、高潔の士が隷従を称揚し、低劣、追従の徒が独立を推奨する。清廉で開明的な市民はあらゆる進歩に敵対し、愛国心も徳義心もない人々が文明と啓蒙の使途を自任する。(p. 25)


 このような状況にあって、トクヴィルアメリカに範を求めた。そこでは、平等化や民主化が革命なしに成し遂げられ、デモクラシーは対抗原理の抵抗にあうことなく、自由に成長し、その自然の限界にまでたどりついているのである。ここで、トクヴィルはけっしてアメリカの政治形態を、さらにいえばデモクラシー自体を推奨することを目的として本書を書いたわけではないことに注意しないといけない。平等化と民主化という避けられない社会変革を事実として認め、この変革を平和裏に進めることができたアメリカを例とすることで、そこから変革とともに歩んでいくために役立つ教訓を導き出そうとしたのである。以下の記述は非常に印象的である。

 〔デモクラシーの〕本来の帰結をはっきりと見定め、できうれば、この革命を人間にとって有益なものにする方法を知ろうとしたのだ。私はアメリカの中にアメリカを超えるものを見たことを認める。そこにデモクラシーそれ自体の姿、その傾向と性質、その偏見と情熱の形態を求めたのである。私はデモクラシーを知りたかった。少なくともそれに何を期待すべきか、何を恐れるべきかを知るために。(p. 27-28)