バウマンにとっての近代二型

 訳者あとがきには、バウマンの思想的立場はモダニストであって、(本文からも読み取れるが)ポストモダンの諸現象に批判的であることは明白、とある。『リキッド・モダニティ』という本書のタイトルにも、古い近代への回帰への期待が込められているという。

 リキッド・モダニティとはポストモダニティのことであって、バウマンが後者を避け、前者を使用するにはいくつか理由があったのだろう。ポストモダン(モダン後)には、モダンとの断絶が想定されている。モダンの後にくるのがポストモダンであるからだ。近代と現在はひとつながりであって、現在は近代のあらたな段階(フェーズ)、つまり、流体的な段階なのだ、とバウマンは考える。そして、産業革命以来の近代を固体的な近代とよぶ。この点において、バウマンの考えは、モダンとポストモダンに連続性をみる歴史家であり、現代思想の優れた解釈者であるペリー・アンダーソンの見解と一致する。現在の流体的段階と、過去の固体的段階が地続きの近代であると考える利点はあきらかだろう。現在がいかに様変わりしたとしても、古い近代が近代であるかぎり、そして、新しい近代が近代であるかぎり、古い近代の復活の可能性も残るからである。(p. 274)


 最後まで確信がもてなかったのが、バウマンは固体的近代を、社会の理想的な(あるいはよりましな)形態のひとつと見なしているのかという点。これについても、自由の抑圧や全体主義がいたるところに彷徨している固体的近代ではあるが、にもかかわらず、現代人にとっての幸福の可能性は固体的近代にあるというのが、バウマンの見方であるようだ。

 バウマンにとって固体的近代はもっとも危険で有害であると同時に、もっとも大きな希望と可能性を秘めたものである。それにたいして、流体的近代は小さな幸せ、短期的満足はもたらすとしても、根本的改善の余地も、未来の展望もない袋小路的状況にすぎない。固体的近代には個人的自由の否定、抑圧があったかもしれないが、個人が市民的、政治的にむすびつくことによって、社会がよりよく、公正なものになりうる希望があった。労働者は移動の自由を奪われ、ルーチンにくみこまれ、搾取をうけていたかもしれないが、団結によって生活の向上と、安全と、安定を確保しうる見込みももっていた。一方、流体的近代では個人の不安、苦悩はすべて個人のレヴェルで解決されなければならない。雇用の不安、安全への不安、アイデンティティへの不安は、たとえば、消費による神経の一時的麻痺によって解消されるだけである。(p. 275-276)


 個人の行動が、それを妨げる障壁に対してどれだけ「不自由」を感じないかという「解放」の観点から見たとき、市民性による連帯があった固体的近代にくらべて、選択の自由と不確実性が共在する流体的近代のほうが、解放の度合いが大きいとはいえない、ということだろう。

 バウマンの初期の著作は、日本にはほとんど紹介されていない。しかし、近年、バウマンの著作はつぎつぎと翻訳されている。『リキッド・モダニティ』と似たような話が多いのかもしれないが、いくつかは読んでみてもいいかもしれない。