リキッド・モダニティ: 共同体

 共同体論は、液状化する近代のプロセスに対する当然の反応としてあらわれたものだ。液状化のなかで、個人の安定や安全に対する保障は失われていったが、個人的責任の規模はかつてないほど大きくなった。私的自由の追求のために、他者との絆が弱くなることは避けられないことであった。しかしながら、絆の弱さは自由を追求する士気の低下につながる。共同体論の台頭は、こうした近代生活の逆説的状況によって説明される。加えて、共同体論自体もまた、個人によって選択される「以前」に共同体など存在しないという内在的な逆説をかかえている。

 共同体論の復活は、個人の安定とは対極にある状況に反応した結果生じた、振り子のゆりもどし的現象である。共同体論的主張が大勢の聴衆をひきつけるのはこのためだ。……人間存在の隅々にまで、不安定さが浸透しているのだ。……フィリップ・コーエンが……不安の原因としてあげているのは、おもに、失業、不確実な老後、都市生活の危険性である。三者に共通するのは安心に対する脅威である。こうしたなかで、共同体論のおもな魅力は、予測しがたい、変わりやすい天候に遭遇し、荒れた海に投げだされた船乗りが、必死にもとめる安全な港のようなものを提供していることにある。(p. 220-221)


 エリック・ホブズボームやジョック・ヤングの見方にしたがえば、共同体論における「共同体」は、確実なものがなにもない世界でおこなわれる、永遠に所属することができるグループ探しの結果である。共同体はゲマンインシャフトではなく「アイデンティティ」の別名である。流体的近代にあって、熱心に探し求められるが、しかし獲得しがたいアイデンティティを、共同体への帰属によって達成できると信じ込まれている。そして、そのような共同体はつくられたものではなく、「血」の結びつきにもとづく自然発生的な「家庭」としてイメージされる。共同体論が想定している理想的な家庭は、現実世界のどこにも存在しないが、共同体に属さない悩みをかかえるものの目には、完全に矛盾のない完璧な世界への導きのようにうつる。

 共同体的世界は、内外の明確な線引きがなされたとき完全なものになる。端的にいえば、共同体内の人間が、(みずからに共同体への帰属をもとめさせた)不安の原因は共同体の外にあると認知したとき、共同体内部の調和は完璧なものになる。共同体を生じさせた近代の存在論的不安は、他者を悪魔化しようとする欲望に加担する。


 近代の流動的状況にとって、現実的で可能な連帯の形式は、差異や多様性の調整を前提とした連帯、多様化した個人のアイデンティティを、対立、論争、調停、妥協によって決定し、変更の可能性を残しておけるような統一の確立である。

 これは共和主義型の統一性、自己アイデンティティをもとめる人たちが協力してつかんだ統一性、アプリオリ的にあたえられたものではなく、共生の結果としてえらえた統一性、差異の否定、抑圧、隠蔽ではなく、調整と仲裁によってつくりだされた統一性であるといえる。(p. 230)


 信念や価値観、生活様式が民営化されたとき、アイデンティティは弱々しく、それを守ろうとする個人の能力と決意以外に頼るものがないもののように見える。社会的身分や組織によって、社会的存在としての人間は定義されない。アイデンティティはあたえられたものではなく、自らによってつくられたもの以外に存在しない。このような状況では、とることができる選択肢はふたつしかない。差異とともに生きるむずかしい技術を習得するか、差異とともに生きる必要性のない状況をつくりだすか、である。

 個人のアイデンティティが「事実上」のものになるか、「形式上」のままで終わるかには、大きな違いがある。アイデンティティを守るための防衛兵器をもたない弱い個人は、数の力に救済をもとめるようになると考えられる。「われわれ」としてまとまり混乱や混迷に対処することは、考えられる自己防衛の手段である。「われわれ」という「共通項」でまとまることは、共同体内部の対立や相違を浄化することを意味し、このような均一性によって達成されると考えられる連帯、団結は必然的に移民や部外者の拒絶というかたちをとる。浄化や安全の獲得といった「夢」は、近代における出所が不明の不安が流れ出した排出口の先にある。しかしながら、安全や浄化の希求は、不確実性と不安定性の源泉にけっして近づくことができない処方箋でしかないため、「均質な共同体」によって根源的な不安の解消がもたらされることはない。


 自由が行きすぎたために起こった制度や判断基準の短命化によって、自分自身のからだと避難所的共同体は、近代に唯一のこった防衛基地と見なされるようになった。したがって、からだと共同体のイメージは互いに非常に似通ったものになり、外部からの異物の侵入は徹底的に管理される。かつては分担されていた任務のほとんどを、今ではからだと共同体が背負い込んでいる。このような傾向に対して大きな影響をあたえているのが、国家による安全性/確実性の提供の放棄である。国家の役割は、いまやグローバル化への対応に特化している。グローバリゼーションに消極的な地域に対しては経済的・軍事的介入がおこなわれる。介入の結果、共同体の平和な共存がうながされるということはまれで、しばしば起こっているのは共同体間の反目の増大と政治的空白の出現である。

 民族国家(近代で唯一成功した共同体)の主権の原理が信用できなくなっても、集合的な暴力や抑圧がなくなるわけではない。暴力の「規制緩和」が起こり、暴力の主体が国家のレヴェルから「共同体」のレヴェルまで下降するだけだ。民族国家のあとの空白を埋め、暴力の担い手になっているのが、社会性の「爆発」によって生じた爆発的共同体だ。構成員の一時的な熱狂以外に基盤をもたない爆発的共同体が生きながらえるために必要なのが、暴力に加担し続ける共犯者と、共同体にとって脅威となり、したがって処刑すべき集団的な敵の存在である。

 共同体の脅威を外部から抽出し、いけにえとして殺戮することは共同体の存続にとって不可欠の要素だ。共同体の境界が不鮮明になりアイデンティティがゆらぐとき、統一を維持するために、暴力を使用して繰り返し境界線を引きなおさないといけない。公に暴力を振るうことで、共同体の成員に血をともなう「創世」の記憶が刻み込まれ、殺戮に加担(集団的犯罪を黙殺)したという経験は、原初的犯罪を許し、ともに逃げてくれる唯一の存在として、成員を共同体に一体化させる。爆発的共同体の存在は、「われわれ」と「かれら」の明確な分離、および「われわれ」の生存にとって「かれら」の抹殺は絶対条件であるという前提に立脚している。

 爆発的共同体も流体的近代の産物である以上、騒ぎが大きいわりに、一時的でうつろいやすいものにすぎない。共同体の「爆発的」性質は、流体的近代のアイデンティティと同じである。爆発的共同体は、多数の個人を一箇所に集め、一時的に共通の見せ物を提供する「クローク型共同体」、あるいは個人の日常的孤独を一時的にやぶるガス抜きとしての「カーニヴァル型共同体」といったようなものである。いずれにおいても、個々の関心が融合されることで、新しい特性を獲得した「集合的関心」に変貌するといったことは起きない。熱狂や興奮は一時的なもので、公演やカーニヴァルのような「特別な出来事」が終わったあとは雲散霧消する。

 爆発的共同体は、事実上の個人になれない形式上の個人がおこなうむなしい努力の一部だ。社会性をもとめるエネルギーを集約することなく、むしろそれを拡散し、集団的協調をもとめる人間の孤独を永久化する爆発的共同体は、「ほんとうの共同体」の形成の妨げにさえなる。

 形式上の個人を待つ運命と、事実上の個人の運命のあいだの渡りきれない、あるいは、渡りきれるとはとうてい思えない割れ目から生じた苦痛を、沈静してくれるどころか、クローク型/カーニヴァル型共同体は、流体的近代に特有の社会的混乱の病理学的兆候に、そして、その要因にさえなっているのである。(p. 260)